タイトル写真は現在の平戸港
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平戸生まれの田川福松(のちの鄭成功)は、弱冠七歳にして単身、父・鄭芝龍のいる中国は泉州へ旅立ちます。
福松の門出

16世紀のジャンク船、福松の乗り込んだのはこんな船だったろう。
華々しい船出であった。川内浦の海岸は早朝から見送りの人波で埋めつくされた。
寛永七年(1630)九月末、鄭芝豹の率いるジャンク八隻のジャンク船団は川内浦の港内に勢揃いして、重い錨をあげた。
岸壁の波止場から沖合のジャンクをめざし、乗組員や船客を乗せた艀が人々の歓声に送られて、次々と漕ぎ出てゆく。
そこかしこで別れの挨拶の声が賑やかに飛びかっていた。
なかでもひときわ大きな人の輪がある。
母親のおマツが愛情をこめて仕立てた小袖をまとい、袴をつけた田川福松が、人の輪の中に立っていた。福松の背後に同じ和服姿の虎之助がいた。二人とも腰に脇差を帯びている。幼い二人の顔は上気して、凛々しく引締まって見えた。
田川七左衛門が進み出て福松の前に立ち、
「福松、よいか。お前は明国で鄭森と名乗ることになろうが、自分が田川福松という日本人であったことを忘れるな。お前の母親は日本人の田川マツじゃ。それを忘れてはならんぞ。お前を生んで育ててくれた日本の平戸のことも、忘れてはならん。立派に成人して、平戸の人々に挨拶に戻ってこい。わしも長生きして、その日を楽しみに待っておる」
さいごは涙声になって告げた。
福松と虎之助の二人は波止場から艀に乗り移った。
見送りの人々が二人に盛大な拍手を送ったときだった。
おマツが走り出てきた、
「お待ち、私もいっしょに乗ります」
「これ、おマツ」
おどろいて制止する田川七左衛門におマツは両手をのばして抱いていた次郎左を手渡した。
「長い別れとなるやもしれませぬ。せめて平戸の港口まで福松を見送ってやりたい」
そうかと七左衛門はうなずいて、
「わかった。次郎左は預かる。ゆっくり福松を見送ってこい」
(中略)
銅鑼の音が鳴りわたった。つづいて太鼓が打ち鳴らされ、爆竹の音がそこかしこではじめた。
八隻のジャンクは大型シャム船を先頭にしてゆっくりと海上を辷りはじめた。

平戸、千里ヶ浜から南方を望む
・艀(はしけ):陸と停泊中の本船との間を、乗客や貨物を乗せて運ぶ小舟。
・小袖(こそで):広袖、大袖に対して、袖口を狭く仕立てた和服。(古くは肌着だったが次第に上衣として用いられるようになり、現在の和服の原形となりました)
・脇差(わきざし):武士が腰に差した大小二刀のうち、小刀。
・銅鑼(どら):金属製の打楽器。青銅製で盆形、紐で吊り下げバチで打ち鳴らす。
福建省泉州
泉州には、海商の実でありながら、明国に取り立てられた父・鄭芝龍が築いた城がありました。
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マルコ・ポーロ(1254-1324)
明国福建省泉州は唐、宋、元代のむかしザイトンと呼ばれ、マルコ・ポーロの「東方見聞録」によると、
「アレキサンドリア」と並んで世界の二大貿易港の一つである」
と、その繁栄ぶりを謳われた。
ザイトンとは泉州の町のまわりに繁る刺桐という木のことで、アラビア語のオリーブと同音であるところから、主として貿易商人達が呼びならわした。
泉州の実の名はチュワンチョウ。明国の行政区画によれば府である。
泉州府の中に晋江、南安、同安、恵安、安渓、永春の六県がある。
鄭芝龍の生まれは南安県の石井(せきせい)というところだった。
芝龍が海外貿易の利益によって買占めた土地は、同じ南安県の安平鎮という海浜地帯である。
泉州府の南六十華里のところにあった。中国の一里は日本の五百三十メートルだから約三十キロの道程である。昼夜兼行すれば一日で往復できる距離であった。
鄭芝龍は総兵官という官位を利用して安兵鎮という海駅(港)を私有地として買い、海に面して城郭を築いた。
城郭の名は安平城、私的な城なので世人は鄭氏城とも呼んだ。
方四キロの縄張りの中には鄭氏一族の居館をはじめ将兵の宿舎、貿易品の倉庫、食糧庫、武器弾薬庫。さらに練兵場や馬場なども設けられていた。
四方を取り囲む城壁の高さは八メートル、幅二メートルの厚さである。城壁の四隅にはオランダのオランジ城に模した稜堡をかまえ、イギリスから買入れたフランキ砲を配備していた。
おそらく明国唯一のヨーロッパ式の城砦だろう。
・呼びならわず:習慣として、ある呼び方をする。
・兼行:普通の倍の道のりを行くこと、物事を急ぎ行うこと。「昼夜兼行」
・縄張り:①縄を張って境界を定めること、②勢力範囲
・稜堡(りょうほう):城砦の突角部。16-18世紀、ヨーロッパで大砲による攻防に備えて発達。函館五稜郭はその一例。りょうほ、とも。
続きます。


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