中国5000日(3)遠い遠い夏の日の物語

プールサイド 青と黄

パワハラ? 何ですかそれ。

 猛暑の夏であったが11月に入り、ようやく秋らしくなってきた。暑い夏が終わり、気候が落ち着いてくると、夏は一気に遠い過去になったように感じる。不思議な感覚である。
黄色い付箋紙 中国で世捨て人のような生活をおくっていても、最近は日本のニュースなどもよく見るようになった。某県の知事が、パワハラ疑惑で辞めさせられた。告発の中には、付箋紙一枚投げたとかいう、冗談のような話まで入っていたりしてなかなかおもしろい。パソコンを投げた、というのは、まあパワハラに当たるのだろうか。私に言わせれば、パソコン投げつけて相手が怪我したとか、当たりどころが悪くて失明したぐらいで初めて問題でしょうが、といいたくなる。
 時代が違うから、古い世代の人間は、パワハラだのLGBTだの、現代的な問題に意見しても、問題外とでも言わんばかりに、あっさり跳ね返される。だから適当に合わせておく、または黙っておくという人が多い。が、思ったことは正直に言うべきなのは、老若男女を問わないはずである。会社からリタイアしても、社会からリタイアしたわけではない。

パワハラ上司、それは私です

 ほんの10年前、中国で部下の発言が気に入らなくて、思い切りそいつの椅子を、蹴飛ばし、怪我させそうになったことがある。警察に連れていかれて、いろいろ注意されたが、幸い言葉がわからないので適当なところで無罪放免となった。そういうことを経験しているからというわけではないが、前掲の知事の気持ちもなんとなくわかる。
 どうでもいい、と思っておれば、頭の悪い部下にも腹は立たない。改革への熱い思いがあれば、時に大声を出し、頭ではいけないと思っていても物に当たってしまうこともある。これも言ってはいけない言葉だが“それも教育”なのである。本当にいけないことは、うわべを取り繕って、自分の信念に基づくことをやろうとしないことで、それこそが糾弾され、告発されるべきことなのだ。日本人は何か大切なことを、忘れてしまったのではないか。

慣例にしたがい、老人の昔話

 時代が変わったと言うな。本当に有能な指導者に率いられる組織のメンバー、少なくとも側近であればわかるはずだ。彼らは、24時間常に世の中の課題解決のため、経営の世界なら世界で競争力を得、戦うための最適解を見出だすため考えることを要求される。指導者に提案をし、ほぼ毎回のように、論破され、叩きのめされるはずだ。精神的には、パソコンを投げつけられた方がまだマシだと思うような毎日を送っているだろう。それでも耐え続ける。それは、天才ではない99パーセントの凡人は、そのようにしてしか成長しないとわかっているからだ。

ホームで電車を待つサラリーマン
 私はかつて京セラが急成長し、世界的企業に至る時代、同じ京都の企業で働いていた。40代、50代の頃の稲盛社長の厳しさは、別会社にいた私にも聞こえてきた。京阪バレーという言葉もあり、今をときめく日本電産、オムロン、村田製作所、ワコールなど一群の京都企業は、個性、才覚ある、良い意味での天才的ワンマン社長に率いられるタイプの優良企業が多かった。ワンマン社長のもとで多くの人材が育ち、また、これは推測だが、それ以上の人材がドロップアウトしていったことだろう。私の社会人としてのルーツはそういうタイプの風土の中で醸成されたといってよい。

夏が過ぎて思う

 私が仕事上、中国に関わりを持ち始めたのは2004年と言ったが、そのあたりからの私の人生は、言ってみれば秋である。以後20年であるから七千数百日、この文章のタイトルにしている中国5000日というのは、実際に中国に滞在した日数が、その程度になるであろうという意味である。なるであろうというのは、現在も中国滞在中であり現在進行中であるから。前向きビジネスマン線画ただ昭和32年生まれの自分にとって、世間的な常識から言えば、今後そう長くはおらないだろう。さすがにぴったり当たりとはならないかもしれないが約5000日といって大きな誤差はないであろう人生の秋の季節である。
 人生にも夏がある。タイトルの中国とは、やはり少しずれるのだが、2004年以前の私の人生の夏の時代について少し脱線して書いておきたいと思った。
 80年代後半からバブル崩壊を経て90年代から21世紀へ向かう“あの時代”は、日本の強烈に“熱い”一つの時代ではなかったかと思う。そして、その渦中を駆け抜けた人々はなぜか基本的に寡黙である。日本は戦争をし、戦争世代は戦後世代に受け継がれ、価値観は180度と言ってよいぐらい変化した。価値観は変化したが、戦争世代の日本人の“精神”は、戦後世代に確実に受け継がれた。文字通りゼロからの復興のため、何も考えずにがむしゃらに頑張った世代。彼らは、たまたま生き残った者の義務として、その身を復興にささげた。その人々を親に持ち、「塊り」となってひたすら坂道を上るように日本の世界における存在を高めてくれた「団塊の世代」。昭和32年、戦後12年を経て生まれた私はその「団塊の世代」の薫陶を受けて育った世代である。

太陽とサングラス
 さあ、これからという時にバブル崩壊を経験した。日本全体が自信を喪失した。そして私たちの世代、つまり昭和30年代生まれの大きな罪は、次の世代に“精神”を伝えられなかったことだ。次の世代とは就職氷河時代と言われたに当たる。目標を失った世代、というより目標を立てようという意欲さえなくなった世代に、熱く語りかけてやることが出来なかったのが私の世代だ。
 私の夏の時代であり、日本の夏の時代でもあった、あの時代を生き残った人間として、個人的な体験を少し書き残しておこうと思った。本当に引き継がなければならなかった、日本人の“精神”とはなにか、もう少し考えてみたい。

 

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