前回( →こちら )の続きです。
舗装道路を帝国内にあまねく造り、車を走らせたのはローマ人である。しかし、帝国が崩壊し、道路の維持補修がなされなくなった後には、その道をラクダやロバが背に荷物を積んで歩いていた。がたがたの道では、車は使えなくなったのである。
広く、まっすぐで、かたい道。階段のない、袋小路のない、道幅の広い町並み。これらは車に適した設計であり、戦前には、ほとんど見られなかったものである。
私は長く沖縄に住んでいたが、小さな離島を訪れるたびに、島が変わっていくのが、よくわかる。白いサンゴの砂を敷きつめた福木の並木が涼しい影を落とす美しい道が、次に訪れたときには、ただ広いだけのコンクリート道路に変わっている。日中など、焼けた鉄板の上にいるのと同じで、とても歩けたものではない。なんでこんなことをするのかと聞くと、狭い島で公共事業をやろうとすれば、道路を「良くする」のと、砂浜の海岸をコンクリートで固めて「護る」しか、やることはないのだそうだ。
技術というものは、次の三つの点から、評価されねばならない。(1)使い手の生活を豊かにすること、(2)使い手と相性がいいこと、(3)使い手の住んでいる環境と相性がいいこと。
産業革命以来、技術はわれわれの生活を豊かにしてきた。エンジンはわれわれの筋肉を増強し、その結果、われわれは楽に大きな力を出せるようになった。望遠鏡や顕微鏡は目の力を増強し、遠くのものや小さいものを見えるようにしてくれた。コンピュータは脳の力を増強し、おかげではやく複雑な計算をしたり、大量の記憶を処理できるようになった。
これらの技術がわれわれの暮らしを豊かにしてきたのは、間違いのない事実である。しかし、使い手を豊かにするという観点ばかりに重きをおいて技術を評価する従来のやり方を、考え直すべきときにきているのもまた事実である。自動車というものは、これまでの基準からすれば完成度のかなり高い技術なのだけれど、人間との相性や環境との相性を考えに入れると、まだまだ未熟な技術と言っていい。
人間との相性ということからみれば、道具が、手や足や目や頭の、すなおな延長であれば、それに越したことはない。作動する原理が、道具と人間とで同じならば、相性はよくなる。残念ながら、コンピュータやエンジンは、脳や筋肉とはまったく違った原理で動いている。だから操作がむずかしいのである。自動車学校にみんなが行って免許をとらなければいけないこと自体、車というものが、まだまだ完成されていない技術だという証拠であろう。
環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、ここで論じてきたように、車というものは、そもそも環境をまっ平に変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい・。
環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だから山を拓き、谷をうめ、「良い」道路をつくることは、当然よいこととして、問題にされてこなかったようだ。車は機械文明の象徴と言っていい。アッピア街道やアウトバーンを造った人たちが、征服せねばやまぬ思想の持ち主だったことは、まさに象徴的なことである。
『ゾウの時間ネズミの時間』
焼けた鉄板の上にいるのと同じで、とても歩けたものではない。
~ものではない

人間との相性ということからみれば、…
「からいうと」「からみると」「からすると」

すなおな延長であれば、それに越したことはない。
「越したことはない」「ほかならない」「しかない」







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