白村江の戦い(663年)
唐、新羅は高句麗攻略を目指していた。倭国が唐、新羅につくという選択肢ももちろんあった。議論はあったろうが、結局倭国は古来からつながりの深かった百済の再興を目指す。663年、百済に駐留する唐、新羅の連合水軍に戦いを挑み、結果大敗を喫する。地勢への十分な知識もなく、大規模回線を経験したこともない倭軍は、海上で左右から挟み撃ちにされた。敗軍は日本への移住を希望する百済の遺民たちと帰国することになる。
第五、第六回遣唐使(665年、669年)
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中大兄皇子→天智天皇(668ー672年)
唐としては、倭国と争うのは本意ではない。高句麗征伐を邪魔されるのは好ましくないと考えるだけである。白村江の戦い後、百済の大量移民を受け入れている倭国は、唐にとっては警戒の対象となった。倭国へ友好不可侵のための使節を送ってくるようになる。第5回遣唐使は、665年、唐からの使節を送るための送唐客使という位置づけであった。
そして、ついに668年、高句麗が唐によって平定される。その報を得た倭国は翌年第六回遣唐使を派遣する。中大兄皇子は668年天智天皇として即位していたので、彼が天皇として派遣した遣唐使となる。この遣唐使派遣の意義は、倭国が唐による高句麗平定を祝賀し、唐による新たな東アジア情勢を受け入れる立場をとったということである。
壬申の乱
672年、乙巳の変以来の内乱が日本で起きる。この年、天智天皇が亡くなる。皇位継承をめぐって天智天皇の皇子である大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟である大海人皇子が対立し戦いが起きた。大海人皇子は東国美濃に移り、東国豪族たちの動員に成功しこの戦いに勝利し、翌年飛鳥浄御原宮において即位、天武天皇となる。
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壬申の乱(672年)大友皇子(弘文天皇)vs.大海人皇子(天武天皇)
天武天皇は即位後、矢継ぎ早に改革を成し中央集権的国家体制を強化した。「日本」という国号の使用、「古事記」「日本書紀」の編纂作業の開始、それまでの大王ではなく「天皇」という呼称の使用など。また、乱の際に大海人皇子として勝利祈願をした「伊勢神宮」が、国家的祭祀の対象とされた。現在に続く国家の基礎の多くは天武天皇の治世時に形成されていることがわかるだろう。
国内体制の整備に力を注いだ、天武天皇、続く持統天皇の治世では遣唐使派遣は行われなかった。
第7回遣唐使(701年)

粟田真人(中国塩城市博物館の展示)
国内制度の整備にある程度の道筋をつけた持統天皇は697年文武天皇に譲位する。そして、701年、藤原不比等らによって大宝律令が完成し、律令制度による政治の仕組みがほぼ整う。ちなみに律とは現在の刑法に相当し、令は行政組織、官吏の勤務規定、人民の租税、労役などの基底にあたる。大宝律令の発布を待ち、702年、三十二年ぶりに第七回遣唐使が派遣される。使節団のトップは粟田真人(あわたのまひと)である。
ところが彼らが上陸した場所で、日本国の使者であることを伝えると、唐人は「ここは大周の楚州塩城県のうちである」と答えたという。塩城は現在の江蘇省塩城、国の名が唐ではなく、周となっていることをはじめて知る。「周」の時代、つまり武則天(日本では則天武后)の時代であった。一行はこの時初めて国際的な国号として「日本」とすることを申し出、武則天はそれを承認した。当時、律令制を整備した日本が目指したのは、唐が主催する世界秩序化への参入であり、国号変更もその一環であったと思われる。
武則天はそんな日本からの使者を歓待した。遣唐使一行は多くの貴重な文物を持ち帰っている。「四騎獅子狩文錦」はその例。

四騎獅子狩文錦
またこの回の遣唐使からは、新羅との関係悪化により、壱岐対馬から朝鮮半島に渡り、半島西岸に沿って北上する航路(北路)ではなく、五島列島から直接大海に乗り出す航路(南路)を利用するようになった。大陸を目指す遣唐使はより大きなリスクに向き合うことになる。
第八回遣唐使(717年)

阿倍仲麻呂歌碑(中国江蘇省鎮江)
若くして亡くなった文武天皇の皇子が年少であったことから、奈良時代の天皇は元明、元正と女帝が続いた。皇子の立太子が無事終わり、次代の天皇(聖武天皇)への道筋が確定したことで、第八回遣唐使が任命された。
それまでの遣唐使船の構成はまちまちであったが、この回から遣唐使船は基本四船で構成されるようになった。しかし、四船がすべて無事に帰国できたのは、この第八回のみであった。
この回の遣唐使は玄宗(在位712-717年)に歓待された。玄宗は武則天の孫にあたり唐中興の名君ではあったが、晩年は楊貴妃を寵愛し、結局唐没落のきっかけも作ってしまった肯定として有名。
この回の遣唐使で、玄宗に重く用いられた日本人に、有名な阿倍仲麻呂(698-770年)がいた。彼は渡航時19歳。その後科挙に合格、玄宗に仕えて唐の高官となる。王維や李白とも親交があり、詩人としても名を残している。日本への帰国を望んだが、果たせず、そのまま唐で生涯を終えた。代表作に「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」があり、日本文化にも影響を与えた。彼の生涯は、日本と中国の交流の象徴とされている。
第九回遣唐使(733年)
聖武天皇(在位724-749年)の即位後、しばらくは、長屋王の変(729年)など王権にまつわる重要事件が起き、遣唐使の派遣はままならなかったが、第九回7遣唐使は33年4月に難波を出港した。

鑑真(688ー763年)と唐招提寺(759年~)
この回の遣唐使船の役割の一つにさまざまな技能、知識をもった外国人を招くことがあった。のちに鑑真を招聘することに尽力する栄叡(ようえい)、普照という二人の僧侶もその中にいた。この二人の招きに応じた鑑真が最初に日本への渡航を試みるのが743年。鑑真はその後十年越し、計6回のチャレンジを経てついに753年に第十回遣唐使船の帰路の船に乗り込み日本に到着した。鑑真は、聖武天皇のもとで戒壇を設立。奈良の東大寺で多くの僧に授戒し、日本仏教の基盤を築き上げた。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇も鑑真から菩薩戒を受け、仏教信仰を主導する菩薩となっている。また、医薬や建築にも貢献し、唐招提寺を賜る。晩年は唐招提寺で過ごし、生涯を閉じた。今も唐招提寺に眠る。
以上、「古代日中関係史」河上麻由子著(中公新書)、「遣唐使」東野治之著(岩波新書)を参考、引用させていただきました。(続く)

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