推古天皇、聖徳太子 vs.蘇我氏
〔前編からの続き〕ここで一つの対立軸が生まれる。

聖徳太子関係系図1
推古天皇と聖徳太子、それに対し天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった蘇我氏の対立という構図だ。推古天皇の下で実務を担当する聖徳太子は、まずは仏教をあつく信奉し、蘇我氏との融和をはかった。そして、周囲の意見をよく聞き、何事も話し合って決めようという、十七条憲法を制定した。さらに、隋に倣って冠位十二階を定め、現在につながる官僚社会である日本の国の統治体制の基礎を作った。加えて、国家として正式な留学生である遣隋使を隋の煬帝に向けて送った。日本書紀に記録がある初の遣隋使は607年小野妹子が国使として派遣されたもの。小野妹子の親書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」とあり、隋煬帝を激怒させた話は有名。身の程知らずの外交方針と言えなくもないが、発展途上緒国として、容易に属国の地位に甘んずることはないぞ、という意気込みを大国隋に対して示した意義は大きい。
斑鳩宮の造営
太子本人は、蘇我氏の本拠地であった明日香の北方に、別途斑鳩宮を造営し32歳の時、移り住んだ。聖徳太子は、ここに文化的拠点を造ろうとしたのかもしれない。斑鳩は現在世界最古の木造建築として有名な法隆寺付近の地である。しかし、このことが結果的に蘇我氏の激怒を買い、聖徳太子と蘇我氏の間に亀裂を生じさせたのではないかと言われている。聖徳太子は49歳で、前日に亡くなった妃の後を追うようにして亡くなる。何者かに暗殺されたのではないかと、考える人もいる。

法隆寺と聖徳太子
聖徳太子の子、山背大兄王は系図上、天皇になる資格をもつ位置にいた。しかし蘇我氏の刺客によって家に火を放たれ亡くなってしまう。
次の天皇は中継ぎとして女帝舒明天皇が即位した。蘇我氏の思いのままの時代が来るかと思われたが、蘇我氏の専制に耐えかねた、中大兄皇子、中臣鎌足のクーデターにより蘇我入鹿は暗殺される。これが645年乙巳の乱で、これに続く改革が有名な大化の改新である。
別のストーリー
以上が聖徳太子の時代の“一つ”のストーリー。しかし、ここで考えてみたい。推古天皇と聖徳太子、これに敵対する蘇我氏という図式の中で以上の話が進んだ。もちろん根拠はある。「日本書紀」「古事記」に描かれた歴史である。「記紀」中の蘇我氏は、天皇の権威を脅かそうとする“悪者”として描かれている。大前提として、悪の象徴としての蘇我氏がいるのであれば、その対極に善の象徴がいなくてはならない。それこそが、過去、聖徳太子が日本史におけるスーパースタートして、崇められ、称えられてきた理由ではないか。そういう考えもなりたつだろう。
最近の研究によれば、蘇我氏は「冠位十二階」「十七条憲法」「遣隋使」の制定に、積極的な、というよりむしろ立役者としてかかわっていたのではという資料が出ている。
つまり「推古天皇」「聖徳太子」vs「蘇我氏」という対立の構図はなく、あくまで「推古天皇」「聖徳太子」「蘇我氏」が協力して国家形成の大事を成し遂げていったのではないか。そして、その中で天皇家に属さない蘇我氏が力を持ちすぎてしまっただけ、という考え方が出てきたのだ。もちろん研究は今まさに進行中であり、冒頭の教科書改訂の件にしても、今後どのように変わっていくかもわからない。

聖徳太子(厩戸皇子)、推古天皇、蘇我馬子
聖徳太子の真の業績
日本のこの時代の歴史について、真実を探り当てることは永久にできないかもしれない。ただ、これこそが聖徳太子単独の業績に間違いないというものが、「古事記」「日本書記」に記載されている。それは彼が、「敬神の詔」つまり日本古来の神様を敬わなければならないという勅令を出したということである。太子は、どのような経緯があったにせよ、表向き歴代天皇の中で最も熱心な仏教信仰を表明した。その同じ彼が、同時期に「敬神の詔」によって、日本古来の神道を否定せず、むしろ推奨したのである。それは蘇我氏との融和をはかる一種の方便であったのかもしれない。しかし、その後、千年以上にわたる、儒教も含めた、「神、仏、儒の習合思想」の基礎を、聖徳太子は作り出したのだ。
およそ世界の国家で、他の強力な宗教が流入したとき、問題の生じなかった国はない。ギリシャもローマも、あるいはゲルマン人も、キリスト教徒の流入にあたって大きな文化矛盾を生じた。インドにイスラムが入ってきた時も同じ。多くは争いを経て、外来の宗教との棲み分けが行われた。二者択一である。ところが、世界中どこにおいても、ついぞ習合思想というものは生まれなかった。それを生み出したのが聖徳太子である。
日本には蘇我氏と物部氏の小競り合い以外に、本当の意味での宗教戦争は起こっていない。聖徳太子の「和をもって貴しとなす」という精神は、世界のどの地域にも見られない日本独自の考え方として、その後明治期に至るまでの日本人の宗教観、より広く考え方の基底部分となり、現代に受け継がれている。
竹内街道の聖徳太子墓所
冒頭に聖徳太子の墓所が大阪にあると言った。彼が墓をその場所にと希望した理由は、以下のように考えられている。応神天皇以来、大陸からの文明、文化の導入は日本にとって死活問題であった。聖徳太子の時代、大陸からの船は瀬戸内海を通り、現在の大阪府堺市に上陸し、陸路ヤマトを目指した。

大仙古墳(仁徳天皇陵)
6世紀に整備されたその日本初の国道とでもいえる道は、現在竹内街道といい、古道として整備されている。大陸から陸を見た、渡来人の目にはまず仁徳天皇陵の威容が目に入る。陸上をヤマトへ移動する時、今の太子町を通ってゆく。聖徳太子の墓所の近くには、推古天皇陵もある。外国からの使者は、中央集権の国家として安定的に運営されているヤマト国の姿を創造しつつ、奈良のヤマト国へ向かうわけである。海外からの使者にヤマトの国力を見せるため、そして自身は死して尚、大陸からの文化導入を見届けようとしていたのではないか。
日本人の心の中の聖徳太子
聖徳太子に啓示を受けて大事をなした日本史上の偉人も多い。鎌倉時代の偉大な宗教者であり、現在日本で最も信者の多い浄土真宗のである親鸞は、建仁元年(1201)、修行の身であったころ、聖徳太子ゆかりの京都頂法寺六角堂に籠り、夢枕に現れた聖徳太子の言葉によって悟りを開き、浄土真宗を開くきっかけを得たと言われる。
真実は一つである。聖徳太子が、実在の人物であったか、あるいはかつて言われたような数々の業績を、本当になしたかどうか、という問題にもなんらかの結論が出される日がくるかもしれない。しかし数々の伝説とともに、その後の日本人、日本人の生活に影響を与え続けた聖徳太子という“思想的な人格”は、今後の評価のいかんにかかわらず色褪せることはないだろう。


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