中国5000日(9)ゼロで始まりゼロで終われ!

エレベーター2基

2011年 中国

 2011年11月26日、チャイナエアーCA922便で関空から上海へ向かった。機内で航空会社の宣伝誌を見ていたら、面白い記事があった。上海生活についての短いエッセイだった。おおよそ以下のような内容だった。

上海での生活は厳しい。住居費をはじめ物価が高い。空気も悪い。何より人が多すぎて窮屈だ。なのに、何ゆえに中国人は上海をめざすのか。思うに、上海暮らしはエレベーターに乗るようなものだ。しばしの窮屈を我慢すれば、上に行ける。我慢する時間が長ければ長いほど上層階へ行けるのはもちろんだ。見事、最上階までで上り詰める人もいれば、最初から私はこの辺り、とさっさと降りてゆく人も多い。混み合った小さな箱の中、一人でも降りてゆく者を見れば、皆は心の中でホッとし、少しの優越感を味わう。一人一人がそれぞれの目指す高さを心に抱きながら、窮屈さに耐えている場所、それが上海である。

 
 というような内容であった。上海も建設ラッシュで、農民工と呼ばれる労働者が一定数、上海で生活していた時代。治安も良くなかった。かつての東京もこれに似たところであったろう。

1960年代以後 日本

 筆者、生まれは大阪への通勤圏、兵庫県川西市である。子供の頃、通学路はいつでも工事中であったように記憶している。建設ラッシュこちらの建物ができたら、次はあちら。気がついたらまた別の場所でビルの建て替えが始まる。小学校からの帰り道、工事現場に入り込んで、ちょっと変わった形の釘やら、細かい部品を拾って遊んでいた記憶がある。今では安全上考えられないが、そういう時代であった。美しい町の完成予想図はカッコよくて、子供ながらに誇らしかった。しかし、いつもどこかで工事中、ということが永遠に続くのなら、あの完成予想図のようなピカピカの未来は永遠にやってこないじゃないかと、子供心に思っていた。日本の高度成長期の一つの風景である。
 やがて、青年期を迎え、いつしか建築ラッシュは終わっていた。子供の頃夢に見た完成予想図そのものの街が目の前にあり、やたらでかい音やほこりが出る工事は見られなくなった。幼少期から、少しずつ少しずつ、変わっていった景観は、変化を感じることなく、街は子供の時となんら変わっていないようにも見えたのが残念ではあった。
 日本の国際的競争力が増し、世界のトップランナー日本の一員として、社会人としての生活が始まった。ジャパンアズナンバーワンと呼ばれ有頂天になった時代が、実は停滞への合言葉だったのかもしれない。やがてバブル崩壊で現実となった。

1990年代 日本

 高度成長を経験した世代を上司に持ち、安定成長から低成長期を生きた。停滞への恐れから、あるいは得体の知れない不安にかられ、日本人は本当に焦り始めた。年功序列制賃金への反省から、能力主義、結果主義ということがよく言われた。グローバルスタンダードという言葉に踊らされたのは、私だけではない。

STANDARD

 前年比を上回ったかどうかのみで仕事の評価が決まった。たくさん儲けて会社に利益をもたらしたということではなく、たとえ赤字でも、次年度その赤字幅か狭まれば、例えばボーナスが上がる。少なくとも私の会社では、前期比、前年比プラスかマイナスかで評価の明暗が分かれた。それが当たり前の世界で20年生きてきた。

ゼロの発見

 昔話が過ぎたので結論に向かう。転職と、同時に中国へ来て上のような自分の、あるいは日本人全般がかつて持っていたような感覚を、多少変更することになる。一歩一歩着実に進むことはよい。ある程度の高みに登ったら、せっかくここまで登ったのだから、そこから落ちたくないと思う。
ゼロ いつだったか、堀江貴文氏の「ゼロ」という本を読んだ。立派だと思った。彼の経歴については、有名なのでここでは割愛する。落ちて原点に戻ってもくじけるな、ということではない。そもそも、原点に戻ることを都合の悪いことと思わないことだ。もともとゼロから出発しているのだから、ゼロからまた歩みだせるチャンスではないか。むしろ喜ばしい。たぶん失敗をしない人はこれを理解できない。そうはいっても失敗しないに越したことはないではないか。そう考える人はいまだに多い。
 特にそういう人に反論して説得するつもりもない。私は理解した、ということが言いたいだけである。
 もう一つだけ言えば、成功とは巨大な機会損失である。さらに言えば、人間はいつか消えてなくなる。もしかしたら明日かもしれない。そういうことも、元に戻るだけで、損するわけでもなんでもない。心の底から、そう思えるかどうかということだ。

失敗を恐れない

 後々述べることになるかもしれないが、中国では、いくつかの失敗をした。私に言わせれば、前向きな失敗である。日本では致命的なものになるような失敗でも、なぜか助けてくれる人や機会が現れ、奇跡のように立ち直れた。そして、その後以前より良い生活が待っていた。格好よく言えば振り出しに戻ることを当たり前に受け入れ、停滞なく前を向いて一歩ずつ進んでいたことが、幸運を呼び込んだ。
 上海での2ヶ月少々の短期留学を終え、常熟へ引っ越した。常熟で住んだマンションは日本人の多い小綺麗なところだったが、当時の中国の相場から見てもかなり安かった。その後、別の場所に引っ越してから、偶然聞いたのだが、数年前にエレベーター事故で何人かの住民が亡くなった。それをきっかけに人が一気に去り、一時ゴーストタウン化していたらしい。あの頃、中国ではエレベーターの事故がよくあった。
 この文はエレベーターに関するエッセイから始めた。冒頭のエッセイの筆者は、そういう転落リスクも含めて、上海生活について述べたかったのであろうか。

(続く)

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