〔読解〕鄭成功と日本、中国、台湾。〔1644年明の滅亡とその後、司馬遼太郎「台湾紀行」から〕

泉州の鄭成功像

前回は → こちら

 司馬遼太郎「台湾紀行」では、南京での就学時代、明朝の滅亡に遭遇する鄭成功の運命を以下のように記している。

”国姓爺”誕生

 鄭成功の惜しさは、その生涯の短さにある。わずか三十八年だった。

 生後六年で平戸の母のもとを離れ、福建省安平鎮の海浜にある鄭氏の居城に住んだ。一六三〇年、日本の三代将軍家光の寛永七年のときである。ときに鎖国令の前だった。一六二一年にはシャムの王家に仕えている山田長政が幕府に対しシャムとの通商朱印を請うてきているし、また一六二八年には、浜田弥兵衛が、台南海岸のゼーランジャ城にあってオランダ人と交渉し、勇敢な行動を示した。アジアにおける最後の“大航海時代”といっていい。
  安平鎮の居城では、鄭成功は学問ばかりしていたらしい。少年ながら、学問の国の明にあこがれを抱いていたかと思える。
  生年十四で南安県の学員生にえらばれ、とし二十のとき、南京の大学に入った。が、ほどなく向学の思いを断たざるをえなくなった。かれが南京にいた一六四四年、明がにわかに滅んだのである。

 すでに明は末期状態にあり、流賊が各地に横行していた。最後の皇帝である毅宗が勤王の義軍を募っても、応ずる者もいなかった。
  右のとし、李自成という流賊がにわかに北京城を攻めおとし、宮城に乱入した。毅宗は幼い姫をみずから刺し、皇后とともに縊死した。死に従ったのは、宦官ひとりだけだった。
(中略)

 とはいえ、諸方に、明室の王族を擁して清軍に抵抗する勢力もあらわれた。
 擁されたのは“福王”という怠惰な王族だったが、ほどなくその抗清勢力が拠る南京が清軍に陥とされ、王も殺された。
 ついで“唐王”が擁され、福建省の福州に拠った。擁したのは鄭芝龍らであった。 
 鄭成功は父に従ってこの残明の勢力の中にいた。しかもかれは“唐王”に愛された。このことが、かれの運命をきめた。
 “唐王”は、生年わずか二十一の鄭成功に明の姓である朱姓をあたえ、忠孝伯に封じたのである。以後、かれは“国姓爺”とよばれることになる。

・徳川家光:徳川三代将軍(在職1623~1651年)。秀忠の次男。幕府の統治機構や参勤交代の制などを定め、キリシタン禁制を強化、諸侯を威圧し徳川氏隆盛の基礎を確立した。
・シャム:タイ国の旧称。
・山田長政:駿河の人。1612年ごろシャムに渡り、国都アユタヤの日本人町の頭領となり、同国の内乱を鎮め、日本との通交を図った。
・横行:望ましくないことがあちこちで行われること。「悪事が横行する」
・縊死:自分で首をくくって死ぬこと。首吊り。
・拠る:(ここでは)根拠地としてたてこもる。依拠する、の意。

母 田川マツとの別れ

 この前後に、鄭芝龍は、成功の母田川氏を平戸からよびよせた

田川マツと子供時代の鄭成功

田川マツと子供時代の鄭成功像

 田川氏は四十半ばであった。安平鎮の城郭に住み、居ることわずか一年で非業に死んだ。
 鄭芝龍が清軍に寝返ったためである。このおかげで清軍は労せずして福州に入り、“唐王”をとらえ、のちに殺した。安平鎮の鄭氏の城郭も戦わずして落ちた。田川氏は城郭にのぼり、身を投じて死に、清将にさえ感動をあたえた。

 このとき鄭成功は戦場にあって父の奔敵と母の自殺を知り、さらに君主が敵に拉致されたことを知った。

 かれはこのとき、来ていた儒服をぬいで焼きすてたといわれる。以後、武人として生きる。しかも残明のために生死する。

・呼び寄せる:呼んで近くへ来させる。
・寝返る:①寝たまま体の向きを変える。②味方を裏切って敵方につく。
・労する:苦労して働く。骨を折る。「労せずして大金を手にする」
・拉致(らち):無理に連れて行くこと。らっち。

名将”鄭成功”の誕生

その後のかれは名将としか言いようがない。

 当然ながら鄭氏の海上勢力を主力としつつも、海兵隊というべきものをもち、陸戦にも巧みだった。厦門島、金門島などを根拠地とした。
 兵糧を得るために福建、広東、浙江などを手中に入れ、一方、軍資金のためにインドシナ半島からフィリピンにいたるまでの海上の覇権をにぎった。貿易による利によって、戦費をかせいだのである。
 外交も、やった。日本にも出兵を乞うた。一六五八年、かれの使船が長崎に入港したが、日本はすでに鎖国体制になっていた。その後、数度、出兵を乞い、そのつどむなしかった。
 名将の条件の一つは、敵に勝つための軍制を考案することである。その点、かれの陸上軍は、ユニークだった。“鉄人”とよばれる日本式甲冑による重武装兵の部隊と、小銃による火力の威をもつ“倭銃隊”とを備えていた。これをもって敵陣に孔をあけ、本軍をもって崩壊させた。
 その若い晩年、長駆して南京城を攻囲したが、結局、戦勝を維持することができず、後退した。その後、大陸の拠点をうしなわざるをえなかった。
 夭折する前年、大艦隊をもって台湾にわたり、オランダ人を逐い、これに拠った。
 台湾に拠ったのは、あくまでも戦略上の必要からで、この瘴癘の地を開拓して兵糧を得、かつオランダ人の商権をうばって貿易の利を確保し、戦費に支障なからしめるためだった。
 その生涯は、あくまでも戦闘者としてのもので、文明の前進に益したというようなものではない。
 しかし、はるかなのちの世に、かれの予期しなかった政治的効果をもたらした。
 ひとつは、かれがつくった台湾における漢民族政権が、ともすれば無主の地とみられがちなこの島の所属について、後世、一証拠を提供することになった。
 いまひとつは、とくに十九世紀以後、わきおこった中国の民族主義的気分にとっての一つの炬火になったことである。
        以上、「街道をゆく」 台湾紀行 司馬遼太郎 から

・夭折:年若くして死ぬこと。
・長駆する:長い距離を一気に走ること。
・瘴癘(しょうれい):特殊な気候・風土によって起こる伝染病の熱病。
・炬火(きょか):たいまつ、かがり火。

続きます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました