〔読解〕鄭成功と日本、中国、台湾。〔鄭成功二十歳、南京1644年〕

崇禎帝肖像画

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タイトルは崇禎帝(朱由検)明朝最後の皇帝で、1628〜1644年在位。以下「鄭成功」陳舜臣 から引用します。
 1644年。かぞえ二十一歳の鄭成功は、南京の国立大学にあたる”国士監”で学ぶエリートです。

南京

 南京は別名を金陵という。
 金陵の秋は、ことのほか紅葉が美しい。玄武湖畔では、菊が咲き競っている。
 国士監の欄干にもたれて、鄭森は南のほうをながめていた。文廟、羅鳴寺を背にした国士監は、東と南に水路をひかえていた。それぞれ珍珠橋、新浮橋といった名のあでやかな朱色の橋が清らかな水を跨いでいる。
「いつ見てもきれいだなあ」
 鄭森のそばで、おなじような姿勢で、おなじ方向に目をむけていた、友人の陳方策という学生がそうつぶやいた。
「うん、風光だけは……」
と、鄭森は答えた。
「風光だけは……」
陳方策はおうむ返しに言って苦笑をもらした。
 おなじ二十一歳。二人とも血気盛んで、しかも感じ易い秀才だったのである。
「国亡びて山河在り。……さっき杜甫の詩集をひもといていると、ひらいた頁にその句があって、はっとした。縁起でもないぞ」
 鄭森はそう言って、背筋を伸ばした。
「北から韃靼の軍鼓が近づこうとしているのに、この金陵は派閥争いに明け暮れている……」
 陳方策は吐きすてるように言った。
 若い血が騒ぐのもむりはない。このとし、明国は滅亡したも同然であった。
ことのほか:①予想と差がある「ことのほか出費がかさんだ」、②程度がはなはだしい「ことのほかうれしい知らせ」
あでやか:容姿・しぐさや花などがなまめかしく美しいさま。「あでやかな衣装」「あでやかに舞う」
風光:自然の美しい眺め「風光明媚」
おうむ返し:人の言った言葉をそのままに言い返すこと「おうむ返しに答えるばかり」
明け暮れる:毎日決められたようにそのことをして過ごす。「明けても暮れても~をする」

李自成の乱

李自成像

李自成像


 うちつづく失政――というよりは政治不在によって、人びとの生活は窮迫し、たまりかねて各地に一揆が起こったのは、もうかなり前のことである。はじめのころ、造反軍は玉石混交であったが、宿場人足あがりのすぐれた指導者の李自成が、造反諸軍の大連合と、その革命軍化に成功した。そして、ここ数年来、彼の軍団は明の朝廷を西からおびやかしていた。

 明王朝は東北からも、強力な軍事集団である満州族の脅威をうけていた。
 満州軍は太祖ヌルハチの時代に、サルフで明軍を破ったあと、遼河の東へ進出し、山海関近くまでその勢力をひろげた。
 この難局に、明王朝から一人の救国の英雄もあらわれなかった。
(中略)
 ことし(崇禎十七年。1644)の正月、李自成は”大順帝国”と称し、大軍を擁して山西から南下し、3月17日に北京城を囲んだ。
 追いつめられた崇禎帝は、皇后を自殺させ、十五になる我が娘の長平公主を斬った。
――おまえはどうして帝王の家に生まれてきたのか!
 娘に向かって剣をふりあげるとき、崇禎帝はそんな悲痛な言葉を叫んだ。
 そのあと、崇禎帝は紫禁城の北にある煤山(メイシャン)に登った。これは低い人工の山で、現在は景山と呼ばれている。元の時代、万一のときの籠城戦の燃料にするため、石炭を山と積み、その表面に土をかぶせたのがこの煤山だという。元が亡びて三百年に近い。煤山はむろん緑に覆われた山になっている。その頂上にある万春亭の中で、崇禎帝は首を吊って死んだ。白衣を身につけ、髪を前に垂らした姿で、襟に遺言がしるされていた。

呉三桂肖像画

呉三桂肖像画


――朕は死して地下に先帝に見(まみ)える顔(かんばせ)なし。髪をもって面を覆う。朕が屍は賊が分け裂くに任せん。文官を尽くみな殺死するも可なり。ただ陵を壊すなかれ。我が百姓(ひゃくせい)を一人たりとも傷つくるなかれ。……

たまりかねる:がまんしきれなくなる「たまりかねたように質問する」
・玉石混交:良いものと悪いもの、価値のあるものとないものが入り混じっていること。
籠城:敵に囲まれて城にたてこもること。→「籠城して執筆に励む」
:(しかばね)死体、死骸。
:(りょう)天皇の墓所。みささぎ。

呉三桂

呉三桂肖像画

呉三桂


 李自成軍が北京に迫ったころ、北京は東北へ救援をもとめる急使を送った。
 東北地方には、満州の軍団の侵攻を防いでいる明の猛将呉三桂がいたのである。彼は急報を受け、山海関まで馳せつけたところ、北京陥落のしらせに接した。
 北京からさまざまな情報がもたらされたが、そのなかで呉三桂を最も悲しませたのは、皇帝自殺の悲報ではなく、自分の愛妾(あいしょう)陳円円が、李自成軍に奪われたというしらせであった。
 激怒した呉三桂は、これまで戦っていた相手の満州軍に、援軍を乞うたのである。
 全民族を軍事集団に組織した満州族は、すでに奉天(現在の瀋陽)に宮殿を営み、国家としての力を養っていた。太祖ヌルハチの後継者太宗ホンタイジ(皇太極)もすでに死に、三代目の世祖順治帝はまだ6歳だが、英傑の誉れの高い叔父のドルゴンが、摂政王としてその後見をしていた。
 呉三桂の乞援は、満州王朝にとっては、最高の幸運といわねばならない。これまで満州鉄騎兵の精強をもってしても、明軍の山海関の守りは大きな壁であった。
 それを山海関の明の守将が、兵を関内にいれてくれと要請したのである。一滴の血も流さずに、満州軍は山海関を越えることができた。
 結果として、、満州族の清朝が、やすやすと関内に進攻し、李自成軍を破って北京を手に入れてしまったのである。
馳せつける:走ってきて到着する。かけつける。
愛妾:愛情を注ぐめかけ。
乞う:ある物を与えてくれる、またはある事をしてくれる、ように相手に願い求める。
英傑:際立って才知に秀でた人物。
後見:(こうけん)年少者などのうしろだてとなって補佐すること。またその人。
乞援:(きつえん?)援助を乞うこと、として使っているようですが辞書にない言葉です。

つづきます。

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