十五年の後
1月6日、期末試験の採点を一気に終えた。冬休みの一時帰国は、余裕を見て明日の航空券を予約してある。
ということで、春節休暇の一時帰国の前日、ぽっかり半日の空きができた。街歩きにでも行こうかと、行き場を探っていて、ふと思いついた。
長く近寄らなかった、かつて勤務した会社の方まで行ってみることにした。大学を出て30年お世話になった会社ではある。年月分の思い出がある。しかしあまり良い離れ方をしなかったので自然、足は遠のいていた。
約15年前、その会社の南通工場駐在員として半年間働いた。私の南通滞在のはじめである。
工場は、長江沿いの経済開発区にある。建物、設備はかつてのままのはずだが、会社自体は、昨年3月にローカル会社に売却され、私の古巣である日本の会社は南通からは完全撤退している。そういうことがなかったら、たとえば仮にかつての同僚に偶然会って、気まずい思いをするという可能性がないとはいえない。だから近づきがたかったと言えなくもない。
ただこちらの方面に来なかった大きな理由は、単に交通の便が良くなったということだ。それが、一昨年開通した地下鉄で終点までいけば、そこからは歩いて1時間弱となった、往復歩けば、よい運動になる。
開発区の空気
昼過ぎに部屋をでる。私は現在、大学のキャンパス内に住んでいる。裏門のそばに職員宿舎があるのだ。門を出て、数十メートルで地下鉄一号線の駅、7駅で終点の振兴路に着く。あっという間だ。思い立って、部屋を出てから30分もたたないうちに、初めての風景の中にいるのが、不思議だ。
改めて快晴の空を見上げる。両側の無個性なマンション群以外に、商店らしきものは見えない。ひたすら直線が続く広めの道路。ときおり走る車両のほとんどは、大型トラックである。目指す工場が連なる領域までは、まだまだ歩くとはいえ、開発区の空気満々である。天気はいいが、これは散歩を楽しめる道路ではないなと、歩きながら思う。通盛大道とある。

通盛大道
開発区へ進む
やがて、住宅の連続が終わり、ぽつぽつ工場が目立ってくる。
大学で働くようになってから、学生の社会見学のためにお世話になっている日系企業の前も通る。
歩くのは好きだ。しかし、この一直線の道路は、退屈なだけ。むしろ苦痛。順風満帆の人生もまたしかりということか。私の人生、少なくとも仕事人生が、必ずしも順調でなかったことに、今となっては感謝しなければならないのかもしれない。
過ぎてしまえば、波乱もまた人生の味わいの一つである。何よりも記憶に残る。
三輪タクシーの思い出
かつて、日系化学会社社員の立場で、工場勤務していた頃、一度だけ、工場から歩いて市中の家まで帰ってみたことがある。理由は忘れたが、そういうことをしてみたことを突然思いだした。開発区の工場勤務は、駐在員数名が一緒に
社用車で通勤、そして退社というのが通常だろう。私は、変化がほしかったのかもしれない。歩きに歩き、いつまでたってもバスが見つからず、自宅に帰りつく見込みが立たず後悔した。

中国の三輪タクシー(この写真は24年夏洛陽の二里头遺跡で撮ったもの)
やむを得ない。言い訳は難しかったが、とにかくも日本人の同僚に電話して、車を回してもらおうと思った時、
後ろから、三輪タクシー(昔はよくあった)が追い付いて来て乗せてくれた。三輪タクシーは近距離しか行かないので、とりあえず近くの大きめのバス停まで乗せてもらい、事なきを得た。季節はいつだったのだろう。揺れる座席の感覚、顔に吹き付ける風の強さを、今でも覚えている。
私の中国生活十五年は、三輪タクシーに乗った、あの時のようなものかもしれない、いろんな意味で、とふと思った。
新開南路
長い直線道路のおわりが湿地公園、ようやく右折する。覚えのある「新開南路」への標識がある。その場所に行っても、もはやかつて少しの間だったが、お世話になった会社はない。工場はそのままでも、人手に渡っている。懐かしい故郷の家に帰っても、そこにはすでに赤の他人が住んでいるというようなものだ。
南通の日本人駐在員はこの10年で激減している。現地化したというより、撤退した会社が多いのは、中国の別地域もおなじだろう。
もはや中国は魅力ない。昨今の日中関係の悪化で増大したチャイナリスクを避け、日系企業の中国離れが加速、といった具合にメディアではニュートラルに、あるいは勇ましい語調で伝えられている。
が、実際の多くの日本企業は、はてしなく伸びていきそうな中国マーケットを前に、免税などの好条件につられ中国進出し、そこそこの利益をあげながら、結果的には、技術を丸ごと横取りされ、用無しになって捨てられた。そういう図式が正直なとろではないか。

そういうことを予測していなかったわけではなかろう。2000年当時でも、将来は中国の人件費も先進国並みになっていくだろう。ローカル企業の安売り攻勢には、対抗しがたい。ならば現地に出るしかない。ただ、中国安い労働力による現地生産のメリットも、やがてなくなっていくのは目に見えている。その時はその時、また安価労働力をもとめて、東南アジアに工場を作ればいいさ、その程度のことしか考えていなかったと思う。場当たり的な対応で、戦略性がなかったのかもしれない、と結果論で言うのは簡単だ。
とはいえ、日本の製造業の技術的優位が失われる時代が来ることなど、考えてもいなかったはずた。ノー天気といえる。ある種、おごりがあったのかもしれない。
終点は長江の風景
そのようなことを考えながら、歩いていたら、あっという間に元の職場である長江沿いの工場に書いた。工場は稼働している。煙突から煙がでているのでそれとわかる。以前の正門看板はそのままだ。日本人なら社名ぐらいはすぐ付け替えるところだろう。
会社の正門をそのまま過ぎる。さらに200メートルほどあるくと、堤防があり、その向こうに長江が、みえる。
かつて、京都へ帰任する直前の2010年10月15日、帰国の二週間前である。この場所に初めて来て、川の流れを見たことを覚えている。長江まで200メートルの場所にある工場にいても水の流れを、直接みるこの場所に来たのはあの時、一回だけであった。
二度と南通、中国に来ることはないと思っていた。だから長江の風景を心にとどめて行こうと思った。その日撮った写真が一枚だけ残っていた。

2010年10月15日新開南路から長江をのぞむ
15年後、同じ場所に立ってる自分が不思議である。風は痛いぐらいに冷たいが、日は左45度、鈍くひかってそちらに顔を向けると熱が伝わってくるような気がする。
景色は大きく変わっていた。正面が公安の船着場になって視界を遮っている。すこしうっとうしい。右方は三機のオレンジ色のクレーンが積み込み作業中、クレーンの連続的な音が、うるさくはないが自然の音を消している。左方にも同様の設備がある。間を縫って滝岸方面までしか気がひらけているのは張家港の方角だ。ちょうどそちらからふく風が、かろうじて気持ちいい。

15年の後、長江の眺め
中国5000年
上海、常熟生活を含めると、中国生活は15年になろうとしている。いくらなんでも越えないだろうと思っていた5000日の区切りも、いつもまにか過ぎている。
気がつけば、かつての会社の同僚は、南通には一人もいなくなっている。
日本にとっても、一つの時代が終わろうとしている。
私は、今日もここにいるのである。
2026年1月7日 江蘇省南通にて



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