山陰の旅2020年(五)下関 赤間神宮

赤間神宮essay
赤間神宮

萩から下関へ

 萩で時間が余ったので藩校の明倫館に立ち寄った。明倫館は小さい萩市街三角州のど真ん中に位置する。暗色の木造校舎は昭和の小学校風。内装も筆者がかつて実際に通った小学校の教室や廊下といった雰囲気がありボンヤリ歩いているだけで気分良い。

 が、展示物がやたら多い。各教室が独立したパビリオン風になっていて、各教室に説明スタッフが待ち構えている。一つひとつ説明していただきたかったが、下関行きの時間が決まっていたので、時間がなかった。申しわけないような気分で明倫館を離れ駅に向かう。

明倫館

明倫館

 萩は改めてゆっくり訪れてみたい街だ。

 明るいうちに東萩を出、夜下関に着く。駅前の本屋を冷やかしホテルで休む。

 下関市は本州西端にあるため、山陰側と山陽側に分かれているそうだ。JR下関駅に着いた時点ですでに山陽側、山陽地方ということになる。そういう意味でタイトルの山陰の旅は正確とは言えなくなる。確かに安来、出雲、萩、と辿って下関に出てくると、山陽側に出たという気分になる。自由に森の散策をしていたら、急に往来の激しい車道に出てしまったような、興覚め感と、そして少々の安心感がある。

関門海峡

 翌日、とりあえず観光案内に従って海の見える関門海峡へ。

関門海峡

関門海峡

 海外で日本語教師をやっていると、常に“日本的なるもの”を探す癖がつく。大学の外国籍教師の役割は日本語を教えるというより、日本を教えることが求められるからだ。難しい学問は要らないが、日本の常識は必要である。そういう意味では常日頃ぶらぶら遊んでばかりいるようであるが、24時間教案のネタを探し回っているという言い分けも成り立つ。

 筆者は長く京都に住んでいるため、日本的なるもののネタ探しでは有利なことは確かだ。何と言っても京都、大阪は日本文化の宝庫である。

 日本語教師としての関心という点から見て、下関も日本人なら誰でも知っている“日本的”ないくつかの歴史的出来事の舞台となっている。まずは源平合戦で平家が滅亡した壇ノ浦の戦いの舞台がこの海峡である。そして江戸時代、宮本武蔵が佐々木小次郎と戦ったとされる巌流島がある。幕末には、攘夷を唱える長州と英仏蘭米の四か国との間の武力衝突があった。

赤間神宮

 赤間神宮は壇ノ浦の合戦で平氏とともに沈んだ安徳天皇を祭神とする神社である。

 日本の武家社会の黎明期、平氏の栄華は長くは続かなかった。平清盛の時代は「平氏にあらざれば、人にあらず」とまで言われたが、「奢れるもの久しからず」関東で蜂起した源頼朝が勢力を一気に拡大、源平の争乱時代を迎える。劣勢の平氏は都を追われ西走する。さらに源義経の執拗な追撃を受けついに壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する、というのがいわゆる源平合戦。

 壇ノ浦の戦いはクライマックスであり、まさにここ下関での源氏と平家の船団同士の海上の戦いであった。敗色濃厚となりもはやこれまでと悟った平氏方では満7歳の安徳天皇が祖母に抱きかかえられ入水する。

 以下、「街道をゆく」から抜粋する。

 1185年3月、壇ノ浦合戦で平家の船隊がちりぢりになって敗北したとき、平家方が擁していた安徳帝八歳も、御座船から飛んで入水した。

 二位局(にいのつぼね;清盛の妻・時子)は帝を抱き、ふなばたへ歩み寄ったとき、山鳩色の衣にびんづらを結った童形の帝は、

「尼前、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」と問うたと平家物語にある。

二位尼はいろいろ言ったあと、

「浪の下にも都のさぶらふぞ、と慰め奉って、千尋のそこへぞ入り給ふ」とある。

「街道をゆく」長州路 司馬遼太郎 から

現代語に直せば、

「おばあちゃん、私をどこに連れてゆくの?」「この世はちょっと大変だから、別の都に行きましょう。この波の下にも都がございますからね」と言って身を投げるのである。こういう”滅びの美学”をことさら好むのが日本人の一つの性質。”無常感”につながる日本的美意識なのであろう。

 これを書いているのは2022年6月であるが、ちょうど5月に放映されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第18回の中では、菅田将暉演じる源義経が壇ノ浦の戦いで「八艘飛び」を演じ、安徳天皇入水を見届けるというシーンがあった。おそらく大河ドラマの中では、別のタイトル中でも繰り返し再現されたシーンの一つではないだろうか。それだけ日本人の感性に合う話ということなのだろう。

「鎌倉殿の13人」での安徳天皇入水シーン

「鎌倉殿の13人」での安徳天皇入水シーン

 「街道をゆく」の記述は次のように続く。

 いまの赤間宮の建物や楼門(水天門)は以前になかった。昭和33年につくられた。「浪の下にも都のさぶらふぞ」と二位尼が幼年の帝をなだめてともどもにしずんだことから、設計者は少年の霊をあざむくまいと思い、その宮を竜宮造りにしたのにちがいない。こういう優しさというのはわるくない。

赤間宮にのぼると、のぼった左手のほうに平家一門の墓がある。

壇ノ浦海戦の平家方の作戦を指導した新中納言平知盛など七人の一門に、六人の侍大将、それに二位尼の墓が苔むしていて、例の琵琶法師耳無し芳一の伝説もここから出た。

「街道をゆく」長州路 司馬遼太郎 から

浦島太郎と竜宮城

浦島太郎と竜宮城

 タイトル写真の赤間神宮の水天門は安徳天皇が辿りついた波の下の都の門を模したものということだ。日本文化の授業ならここで「浦島太郎」の話を挟むことになる。

 そして民間伝承となった耳無芳一(みみなしほういち)の話もこの赤間神宮で生まれている。赤間神宮は明治以前は阿弥陀寺という立派な寺院であった。明治になって天皇が寺院に祀られるのはどうかというお上の指示で神社になったという敬意があるらしい。

 そしてこの土地の話を小説にし、日本人に広く知らしめたのが、ギリシャ生まれのイギリス人ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)であるというのもおもしろい。

平家一門の墓と耳無芳一

「平家一門の墓」と「耳無芳一」

 「耳無芳一」の話については日を改めて書くことにしたい。

(2020年1月22日山口県下関)

 

 

 

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