3日目。午前中松島湾、円仁開創の瑞巌寺などを見た後、昼、松島駅から平泉へ向かう。15時には平泉のホテル武蔵坊にチェックイン。多少時間があったので近くの毛越寺へ行く。“毛越寺”と書き“もうつうじ”と読む。
仕事人、円仁
毛越寺も円仁の仕事らしい。円仁の業績には「仕事」という言い方がぴったりするよう思う。Wikipediaによると、円仁が中国での9年にわたる求法の旅から帰国後、関東、東北で開山あるいは再興したとされる寺は500を超えるという。
全く時代や背景は異なるが、例えば今年2021年ドラマ「青天を衝く」で描かれている渋沢栄一も500程度の株式会社の設立に関わった。日本史上最高の仕事人(シゴトニン)だと私は思っている。円仁にしろ、渋沢栄一にしろ、筆者のような凡人には、どういうエネルギーが、一人の人間をそこまで動かせるのか理解しにくい。
まずは時代の要求というものがある。その要求に感応し使命を帯びる人物が出現する。その人物は、その人生において、むしろ自分をむなしくし、果たすべき使命をひたすら遂行する機能体となる。そのために生きる時間の大半を費やす、という風にしか思えない。特に円仁についてはそう思える。
円仁「入唐求法巡礼行記」と南通
838年、円仁が入唐した際、命からがら上陸した最初の地が、南通如東の海岸であり、宿を求め最初に訪れたのが、かつては海に近かった国清寺であることは以前書いた。彼が大陸での体験を、玄奘三蔵の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」と共に世界三大旅行記ともいわれる「入唐求法巡礼行記」としてまとめ上げた手腕にしても、仕事人というにふさわしい。
円仁は、かの最澄がナンバーワンと認めたとびきり優秀な弟子である。そして最澄亡き後も、片時もエリートの道を外れたことのない完璧な求道者の人生を送った人である。空海、最澄の教義の中の漏れ落ち部分の経典を、もれなく中国から拾い上げ天台宗の体系を完成させた功績も大きい。
円仁という人
しかしこれほどの業績をもつ人でありながら、円仁があまり有名でないのは、彼が空海、最澄のような、いわば創始者ではなく、二代目社長のような立場であることももちろんある。が、最大の理由は、あまりに完璧すぎて欠点が見えない、つまり人間的なところが見えてこないということではないだろうか。
日本人には歴史上の人物への独特の好みというものがある。明治維新で言えば、大久保利通と西郷隆盛のどちらが仕事をしたかといえば、大久保利通ではないか。しかし日本人は西郷隆盛を英雄視し、敬愛する。織田信長、豊臣秀吉の人気に比べて、本当に仕事をしたといえる徳川家康の人気は少し落ちる。渋沢栄一にしても福沢諭吉ほど知名度は高くない。日本人は円仁のようなタイプの優等生、仕事人タイプの人間を好まないのだ。
空海や最澄にしても、特に空海など天才であるのは間違いないが、たとえば空海は最澄を嫉妬して、密教の経典を貸してやらなかっただの、最澄は最澄で、空海を嫉妬するがゆえに敵視していた節もあるなどと、彼らの行状を見ると人間臭いとことも何となく見えてくる。だからこそ親しみも沸くということになる。
私も南通で日中交流史などを語る時、円仁は欠かせない人物であるので、ある程度関心を持って折に触れ関連の図書など調べもした。しかし結局彼円仁には人間としての顔が見えてこない。
円仁は、やや平凡であったかもしれない。
しかし、亡師からその遺志を述べることを付託される人としては、これ以上はないと思えるほどにすぐれた資質をもっていた。学才があり、性格が篤実で、物事に対して犀利であり、さらには義務感を感ずるときには非常の勇気を出すというところがあった。
かれの入唐は、そのこと自体が、容易ならぬ冒険であった。この当時の遣唐使の航海は統計的に何割かの率で死が覚悟されていたし、とくに円仁の場合、上陸後は遣唐使と別れて単独行動をとらざるをえなかったから内陸での乞食旅行そのものが大きな危険をともなっていた。
街道をゆく 叡山の諸道 司馬遼太郎
司馬遼太郎の円仁評も、才能あり、まじめ、責任感、勇気がある…、となにやら大学教授の書いた企業への学生の推薦書のように総花的でピンとこない。
毛越寺の浄土庭園
そんな円仁の作った極楽浄土の世界を毛越寺の庭園で感じることができた。正直、感動した。
京都に住んでいるので庭園の類は多く見てきたし、好きでもあった。京都の庭園のおもしろさは、小さい空間の中に大きな空間を感じさせる技巧にある場合が多い。「おぬし、なかなかやるな。」という気持ちを”庭園の作者”に対して表したくなるものが多い。
毛越寺の庭は違った。何か大きなものを閉じ込めるといった類の、技巧を感じさせるものでない。要はそのモノの迫力である。そのモノとは何かというと浄土というか、俗っぽく言えばこの世の楽園である。技、技巧を感じさせない、ということは人間の存在を感じさせないということだ。つまりここでも円仁は顔を出さない。おそろしく美しい世界が、もともとそこにあるかの如く表現されて、あった。庭園は広い。夕暮れ時、刻一刻と日の光が色彩を変えていき、目の前の風景も微妙にその様相を変えていくのがまた魅力的である。
顔が見えないのではなく顔を見せないということ
この庭を一時間余り眺めていて、円仁に関してずっと抱いていたフラストレーションのようなものが解消されていく気がした。彼は仕事をするに際し、てあえて自分を出さなかったのだ。自分が仕事人として、残しておかねばならないものがどういう性格のものであるかを、傍観者のように理解していたのだ。彼円仁は、それが書き物であっても浄土庭園であっても、自分の名前を冠したまま後世に伝えるべきものではなく、それぞれのモノがそれ単体で生き残っていけるように、あえて自らの個性に封印をしたにちがいない。繰り返すが、それこそが仕事だと考えていたのだろう。
仕事人であれ
技術の世界で30年生きてきた。技術者の成果に個人名は冠されない。本当の仕事とはそういうものだと思って来た。教育の仕事をするようになって、何をもって仕事をしたと言えるのか、わからなくなっていた。不思議なことに、教師の世界には、自己顕示欲の強い人間が多い。逆ではないかと常々思っていた。教育者というのは、生きているうちには、決して自分の仕事の成果を見ることができない、だからこそ尊敬を受ける職業だというのが社会通念なのではないか。
真の教育の成果とは、何十年か後になって、それが果たして誰のおかげによるものかわからないようなレベルで顕在化してくるような種類のものでなければ、本物ではないはずだ。
開山堂があり、円仁の像が遠慮がちに、置かれていた。空海や最澄のような個性は感じられない。相変わらず、顔があってないような円仁である。
翌日、中尊寺、芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」の歌の詠まれた場所などを回った。
帰路、京都へ向かう新幹線から見た、夕方の空が美しかったことが印象的である。夕日を見ながら「仕事をしよう。」自分にそう言い聞かせ、人生初の東北の旅を終えた。
(2020年8月26日)
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