中国の日本語学科標準的テキスト「日語総合教程」第六冊
第9課は紀行文、阿部昭の「香住から白兎海岸へ」でした。少し戻って第6課は同じ作者エッセイ「いのち」です。
わたしのところには、目下、三匹の猫がいるが、近ごろの子供は現実的だから、「猫はいったい何の役に立つの?」などと父親に尋ねる。
私としては返答に窮する。
なるほど、そう言われれば、犬は泥棒の番をするとか、投げたボールを拾ってくるとか、多少とも人間の用事をする。が、猫ときたら!このごろはねずみも出ないようだから、食べて、寝て、出歩いて、お腹がすくと帰ってきて、また食べて寝る、というだけで、人間にはなんにも奉仕しない。
「全然何の役にも立たないところがいいじゃないか。そこにいるだけでおもしろいんだから。」とでも答えておくしかないが、これでは子供への解答になるまい。
それはともかく、動物の行動を見ているだけでも、私には楽しい。彼らが、松やいぬアカシアの幹を、垂直に、一気に、何メートルも駆け上がったり、飛んでいる虫を捕ろうと宙高く躍り上がったりするのを見るたびに、動物ってなんと無駄のない正確な運動をするんだろう、と今さらのように感嘆するのだ。
畜生のあさましさ、などという言葉が人間にはあるが、そうとばかりは言えない。人間の母親でさえ、子供を生むこと育てることをいとい、捨てたり死なせたりする世の中なのに、猫の育児は最新の情愛と無限の忍耐そのものである。
育児といっても、猫の親は子供におやつを食べさせるわけでも、おもちゃを買ってやるわけでもない。自分が草はらで捕まえたとかげをくわえてきて、子供に与えるぐらいのことである。奇妙な鳴き声で子供を呼び、子供が行くと、目の前にぱっと獲物を放してやる。そうして、自分は、子供がとかげで遊ぶのを眺めるともなく眺めている。ちょうど、人間の母親がわが子を見守るときの、満ち足りたような、放心したような表情で、ぼんやり見ている。
わたしのところには、目下、…
我家现有三只猫。最近的孩子都很现实,所以他们向父亲询问:“猫究竟有什么用?”
我被问住了。

・(例)返事に窮する。窮すれば通ず(=土壇場まで追い込まれると、かえってうまい知恵もでてくるものだ)
不错,这么说来,狗可以防贼,或把扔出去的球拾回来,多少为人干点事。

但是猫呢?
・(例)彼ときたら、いつもほらばかり吹いている。
・強調表現は「…と来た日には」
由于现在老鼠也不太看得到了,所以它就是吃、睡、出去走走,饿了就回来,然后再吃了睡,仅仅如此,对人什么贡献也没有。
全然何の役にも立たないところがいいじゃないか。…
“什么用也没有这一点不就挺好吗?因为仅仅呆在那里就挺有意思。”–我只能这样回答,但这恐怕不能成为对孩子的回答吧。
・(例)「彼もきっと知るまい」「楽観は許されまい」「子供ではあるまいし、そんな派手な服は着られません」
这个暂且不说,就仅仅是看着动物的行动,就令我感到快乐。
每当看到它们沿着松树或刺槐的树干,垂直一气上窜好几米,为扑捉飞着的虫子高高地跳跃在空中时,好像在这时才会发出感叹,“动物做的是多么准确而毫无徒劳的动作啊。”
・(例)彼女の献身的な貢献には今さらのように感心する。
畜生のあさましさ、などという言葉が…
“畜生的卑鄙”之类的话在人的语言里是有的。但不能说都是这样。
・(例)金儲けばかりを追う浅ましい男。
有些作为母亲的人甚至不愿生育、养育孩子,扔掉孩子或让孩子死掉,在这样的世界上,猫的育儿却充满细心的情爱和无限的耐心。
育児といっても、猫の親は子供に…
说是育儿,也并不是老猫让孩子吃点心,给孩子买玩具,
而只不过是把自己在草地上扑捉到的四脚蛇叼来给小猫之类而已。

トカゲを捕まえた猫
奇妙な鳴き声で子供を呼び、子供が行くと、目の前にぱっと獲物を放してやる。
用奇妙的叫声呼唤孩子,孩子过去后“啪”的一下把猎物放下来,
然后自己不经意地看着孩子玩耍四脚蛇。
恰如我们人的母亲照看自己孩子时满足、安心的表情,呆呆地看着。
・ほうしん(放心):①心を奪われて、魂が抜けたようにぼんやりする。「放心状態」
②気にかけないこと。「ご放心ください」

猫 親子
つづきます。


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