旅の備忘録 24新春 北京Ⅱ

北京円明園

2025年元旦

  北京の冬、6時半はまだ真っ暗。7時過ぎ、少し白み始める頃ホテルを出る。厚めのダウンを用意していたので体の方は何ともないが、顔に感じる冷気は半端ではない。引き締まる思いは、元旦に似合う。
 年が改まったので、中国でよく用いられるSNSであるWeChat(中国では微信と通称する)に投稿することを再開した。昨秋、投稿内容に適切ではない部分があったと大学他から注意を受け、受信以外で使うことをしばらく休止していた。禁止されたわけではないが、どこが適切でなかったのか、わからないので下手に使わないほうがいいと思っていたが、まったく発信しないのも具合悪い部分もあり、こわごわ、少しずつ戻していくことにする。
 2025年新年の初めに行く場所は、北京大学。これは以前から決めていた。王府井から一号線で西単乗り換え、4号線で北京大学東門まで。地下鉄
 車内に保安係というのだろうか。凛々しい制服を着た男性がいて、「自分で持ってきた椅子にすわらないこと」、「大きい声で話さないこと」という大きなプラカードを持って、歩き回っている。ガラガラの車内であったので、別にいいじゃないと思ったが、そうはいかないらしい。これが彼の仕事なのだ。下手に大声で話そうものなら、つまみ出されるのだろう。
 年が改まったので、中国でよく用いられるSNSであるWeChat(中国では微信と通称する)に投稿することを再開した。昨秋、投稿内容に適切ではない部分があったと大学他から注意を受け、受信以外で使うことをしばらく休止していた。どこが適切でないのか、わからないので下手に使わないほうがいいと思っていたが、まったく発信しないのも具合悪い部分もあり、少しずつ戻していくことにした。

北京大学は遠かった

北京大学見学予約画面

北京大学見学予約画面

 地下鉄出口を出てすぐが北京大学正門。5-6人の人達が開門を待っていた。見学の、おそらく地元の人達であろう。8時、ひとりずつ予約のQRコードをスキャンして中に入る。どうも私の予約画面にはスキャンするQRコード、あるいはバーコードが出ていなかったので、守衛の一人にスマホを渡し、どうすればいいか聞く。どうもこれがよくなかったようだ。
 守衛室の中の5-6人の若い守衛たちの間で、私のスマホがたらい回しになっている。なにか私が悪いことでもしたのだろうか。もちろん心当たりはないものの、私のスマホにルール違反でも見つかったのだろうかと、不安になる。先にキャンパスに入っていった数名は、すでにかなり小さく見えるところまで歩いている。
 最後に、守衛の中のリーダーと思しき30歳ぐらいの守衛氏にパスポートを渡す。彼は難しい顔をして、ひとしきりパソコンを操作している。
 で、最後に一言。「予約できてない。」とのこと。そんなことはないでしょと、返されたスマホで予約画面をだそうとしたが、予約画面は出てこない。ちなみに、ここにあげた写真は事前に予約し、スクショしておいたもの。これを見せても
「これは、スクショであって、予約ではない。現在、あなたの予約はコンピューター上にない」との一点張り。
 狐につままれたような気分、というより新しい年も前途多難だとやや滅入った状態で泣く泣く北京大学をあとにする。

(皆でたらい回しにしてる間に、予約をキャンセルしてしまったというのが考えられる理由。まあスマホを渡してしまった私に責任がある。ここは日本ではない、ということを改めて思う。)

北京大学1975年

 今回、北京大学を見たかったのはやはり司馬遼太郎がこの場所を訪れているから。司馬さんは、日本ではまずありえない広大な北京大学の構内を歩き、日本語学科の学生と話している。1975年。日中国交回復し3年、日本と中国が、今よりずっと仲良しだったころだ。

北京大学外文楼という建物へわれわれは案内された。
外国語学部といったような所で、建物の前で、日語科の二年生の総員三十二人が歓迎してくれた。
「学生たちと自由にお話ください」
と、女性の先生がわれわれを導いて、長イスと長卓子を置いた談話室のような小部屋に入れられた。せまいために学生たちと私どもは前後左右にくっつきあって、どうにもこれでは言葉を喋らすにいられなくなる。
 もっとも達者な話し手は、上海の港湾労働者出身というあかるい青年だった。日本語をどのくらやったんですか、ときくと、
「ちょうど十三か月です」
といったから、おどろいた。発音も呼吸も、日本人そのままである。
「長安から北京へ」司馬遼太郎 より 
 外文楼というところを、見てみたかったのだが、残念ながら入門できなかった。

円明園へ

 せっかく1時間かけてきたのだからと、近場で見るところはないかと探ると「円明園」というのがあったので行ってみることにした。後で聞いたのだが、外国人にはあまり人気はないが、中国人は義務教育時n教科書に出てくるほどで、知らぬ人のないような場所らしい。

以下、教科書的な解説。 
円明園は清代のいわゆる離宮庭園。18世紀初頭に康熙帝がその子雍正帝に与えたもの。その後、乾隆帝の時代に規模が拡張され、江南の造園技術に西洋建築を取り入れた庭園へと発展。総面積は約350ヘクタール。東京ドーム、ざっと75個分の広さである。往時は、建造物の壮麗さもさることながら、きわめて多くの美術品が収蔵されていた、らしい。
 これが、1860年の第二次アヘン戦争で英仏連合軍の略奪・破壊に遭い、廃墟となる。その後も戦乱や文化大革命で荒廃が進んだが、1980年代から遺跡公園として整備され、現在は観光地として公開されている。

円明園2

北京円明園の廃墟

 中国の近代史を可視化して、保存するという意味で価値があるのだろう。北京大学は見れなかったが、代わりになかなか良いものを見せていただいた。

 故宮博物館へ

 円明園を離れ、午後は引き返し、故宮博物館の方へ向かう。
 どうも、足が痛い。日頃からよく歩くので、歩くこと自体は問題なかったが、なにぶんこの寒さ。いつもの靴でも、長時間歩いていると、右の踵のあたりが靴擦れ状態になって腫れてきた。
 故宮博物館も広大だ。疲れを感じる。
故宮博物館1

故宮博物館2

 早々に切り上げる。ホテルに帰る道々、そういえば、北京布靴というのが有名だと思い出した。靴屋さんを見つけ買ってみる。小学校の時の上靴のような感じだが、こいつの踵を踏んであるくと、なかなか良い。右足のアキレス腱のあたりはひび割れして少し血がにじんでいるようだが、明日以降、踵の痛みにそう悩まされることもなさそうだ。
 旅先で買った日用品で、あまり良いものはないが、こいつはその後も時々使っている。

続きます。

 

 

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