日本にいちばん近い中国 2021年 秋。

東海の日の出essay

日本にいちばん近い大学キャンパスから

 江蘇省南通市啓東にいる。筆者のいる場所はその啓東市の東端、海岸沿いのある南通大学啓東キャンパスである。写真に撮ると絵葉書のように美しい。キャンパスは広い。さらにその広いキャンパスの東端の職員宿舎が昨日からの宿である。この場所から、初めて東シナ海から昇る朝日を見たのは2017年夏であった。早いもので4年以上経っている。その間、コロナの流行があり、日の出の太陽を拝むのも、久しぶりのこととなった。

南通大学杏林キャンパス

中国江蘇省、南通大学杏林キャンパス

 ここは特別な場所である。この位置から東方へ、海上を約700キロほど進めば長崎県西端に到達する。さらに日本列島をまっすぐ700キロ進んでも名古屋あたり、という距離感である。海に隔てられているとはいえ、そう遠くはない。海路に遮る島はなく、日本と中国を直線で結んだ場合、最短距離となる場所である。

 そのこと自体は、とりたてて語る必要もないことなのだが、初めてこの場で、日本の方角から昇る朝日を見た時、さまざまな感慨があった。だから、このブログの最初の記事はその時の記録であり、タイトルもそのことにちなんでいるというわけだ。

日没する処の南通から
南通大学は距離的に日本から最も近い中国なのです。初めて南通大学啓東キャンパスの職員宿舎で朝を迎えたときの朝日の美しさが忘れらなません。そしてちょうど朝日の昇る方向に日本があるはずです。日本という国はこちら側から見れば、文字通り“日出づる処の国”なのです。

 大学の周囲1キロ圏内には商店らしきものもない。こういう僻地っぽいところで一人夜を過ごすと、何やら要らぬ想像力を刺激するものらしい。この海を見て、想像力をたくましくし、太古の昔から、命の危険を冒しつつ荒々しい海に漕ぎ出した、中国人や日本人のことを思った。

啓東南通大学キャンパス宿舎から見える朝日

 知識として知っていることと、多少なりと現場に近い場所で、“体感”することの違いというものは大きい。冷静になって、というより日常的な感覚の中では、何をいまさらというレベルの話である。しかし、私たち現代人は、何かにつけ、知ってしまえば、あるいはわかってしまえば、それで事足りてしまう生活を送っている。知識として頭に入れ込めば、それ以上は思考停止し、現地現物を確かめたり、そのために身体を動かすことを怠ってきた。少なくとも筆者に関してはそのように生きてきたのだと、強く思った。そしてそう言う人生を、本当に「生きた」と言えるのかどうかという突拍子もない疑問が浮かんだ。

鑑真や円仁が航海した海

鑑真

鑑真(688-763年)

 1268年前、目の前の海を、55歳の鑑真を乗せた船が、太陽に向かって東方への航路を進み、沖縄、南西諸島経由で念願の日本に到達した。

 1183年前、44歳の天台僧円仁の船は、五島列島を出発、8日間の航海の後、今、筆者の目の前の太陽を、右から左に横切るように進んだ。大陸を目の前にしながら嵐にもまれ、船を失いながらも今の南通市如東になんとか上陸した。船出する彼らの覚悟とは、どのようなレベルのものだったのであろうか?

円仁

円仁 794-864年

 死を賭して大事業を成し遂げた偉人のことを、宗教者であるから、歴史上の偉人であるからという理由で、自分とは異なる種類のものと見る。まるでフィクションの冒険映画を見るように、史実を傍観者として楽しんで見ている。同じ人間のやることである。命を失う確率の方が、はるかに高い旅に出る時、彼らにも覚悟というものが必要だったはずだ。美しい日の出を見ているだけでは、わからない人間としての生きざまを見つけようと、考えてみることは意味のあることだろう。

 

覚悟

遣唐使船 この海に漕ぎ出していく人の心の持ちようを学ばねば、少なくとも理解せねば、自分は「生きている」とは言いがたいのではないか。

 むろん、なにも旧式の船に乗って、実際にこの海に漕ぎ出さなければならないと思ったのではない。ただ、もし円仁に、あるいは鑑真にとって、彼らの命が最も輝いた時期を挙げよと言われれば、多くの人は、彼らが命がけの航海に出る「覚悟」を決めた時であると、考えるのではないか。そのようなある一点に収束していくような人の決意とでもいうものが、人生そのものではないかと思えたのだ。

祥彦という僧が進み出て言った。

「日本へ行くには渺漫たる滄海を渡らねばならず、百に一度も辿りつかぬと聞いております。人身は得難く、中国には生じ難し。そのように涅槃経にも説いてあります。」

相手が全部言い終わらぬうちに、鑑真は再び口を開いた。

「他にたれか行く者はないか・

たれも答える者はなかった。すると鑑真は三度口を開いた。

「法のためである。たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう。」

「天平の甍」 井上靖から

 ここ南通市啓東は、彼らが航海をした地に近い。ただそれだけのことであり、具体的に何かをした現場というわけでもない。ただ現場に近づけば、少しずつ、風景ではない人の形が見えたような気がした。円仁の、そして鑑真の姿が、人間として私の中で像を結ぶ感覚を持った。

 あの日私は思った。60年以上も生きている自分が、かつて何かについて「覚悟」をして臨んだ経験があっただろうか?東シナ海の荒海をみて、その海を、かつて日中友好を願う歴史上のスーパーマンたちが、帆船でこぎ出したように、命を落とす十分な可能性を考慮した上で、あえて踏み出すようなことを自分は過去、一度でも経験したことがあったのだろうか。そのような「覚悟」をしたことがあったのだろうか。

「生きる」こと

 人間というものは、年をとればとるほど、命の大切さがわかるようになる。それと同時に生きる意味というものも、おぼろげに形が見えてくるものだ。もちろん人によってその答えは異なるであろう。

 別に命まで賭けろというわけではない。夢でも、仕事でも、若い人なら恋愛でも、対象はなんでもよい。人生の、ある一つの時期に、ある種の「覚悟」を持って一歩を踏み出せたかどうか、ということが、人が人として「生きた」ということではないのだろうか、と思うのだ。

波濤 数学用語としての収束という言葉は、誰もが高校の時に習う。無限に計算を繰り返す中で、数値がある一つの値、一点に“限りなく”近づいていくということだ。おそらく多くの人にとって、数学など過去のもので、あまり思い出したくないものだろうが、この収束という概念自体は、高校生の私たちにとって新鮮かつ魅力的であった。ある数値に限りなく近づく、つまり収束するということの中に、永遠というものを捉える一つの考え方が内蔵されているからだ。

 人生もそうありたい。人生は、長短でその価値をはかれるものでは、もとよりない。自分の人生を、平凡という名のもとに、ただただ安全であることを求め続けながら、結局のところ長い長い浪費に過ぎない時間のうちに過ごすか、あるいは、生きる価値を見定め、その価値を作り出すという一点に力を収束させていけるような生き様をしたいと思うか。後者の決断をする勇気を持った時、人は初めて生きているということができるのではないか。

(2021年11月)

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