2011京都駅トラストビル
2011年3月11日午後、私は京都駅にほど近いトラストビル8階のレンタルルームにいた。作業用デスクの前の大きな窓からは遠く東山の山々が美しく近くの視界の一部ををさえぎるヨドバシカメラの白いビルが煩かった。私はすでに何度か手直しした再就職の履歴書を、見直し書き直していた。

京都駅前トラストビルから東を望む(2011年2月某日)
遠くを見る私の体が浮き上がったような不思議な感覚を覚えると同時に、身体は左右にゆったりとした振幅で揺れ始めた。それが、はるか遠くで発生した大地震であることはすぐにわかった。それから約3時間の間,私はやるべきことも忘れパソコンの画面に次々と映し出される東日本大震災の惨状に釘付けになっていた。津波が押し寄せてくる映像が映し出されてからは、心と身体が震えた。現在では倫理上の問題があって、どこを探しても見つからないような心痛む映像が容赦なく映し出された。山の上の高台からのカメラであろうか。押し寄せる高い黒い影の前で何台かの車が、逃げ惑っていた。まっすぐ山の方向に逃げおおせる車がある反面、海岸沿いの道路と思われる道を全速で走っているものの,やがて波の中に見えなくなる車があった。わざわざ波の中に突っ込んでいこうとするのではないかと思える車さえあった。それらの映像を、目の当たりにし、ただ唖然としていただけだった。後付けになってしまうが、その時、人間というものは運命に対して、それに抗おうとしたところで、しょせん無力なものなのだと気がついたのかもしれない。
おじさん就活戦線に動きアリ

2011年、開業を待つスカイツリー
当時の気分までは覚えてはいないが、ただ過去の記録をみると、震災を境に私はアクティブに動き出していたようだ。ありとあらゆる就職斡旋会社に登録し、可能なところは実際に訪問しカウンセリングを受ける。何とか新しい就職先を見つけようとしていた。近畿一円のハローワーク、昔の職安へも日参した。八十数社まではエクセルに表にして結果を記録していたのを覚えている。最終的には百社を超える会社に履歴書を送った。この辺りのことは以前にも書いた。
鬱病が治ったわけではない。通院し、薬を飲みながらの就活である。しかし、記録の中の自分は、あの震災を境に元気になっていた。54歳にして、ゼロからのスタートとなることを、決して卑下してはいなかったと思う。就職に役立つものならなんでもと、3月から5月の間に、フォークリフトの資格を取り、京都のKECなる日本語教師養成学校に通った。
何年かぶりに、手帳にはスケジュールがいっぱいという生活であった。それまでの数年の記憶はぼんやりとした霞の中だが、就活であちこち動いていた時の記憶は鮮明で、むしろ懐かしい。
手帳のかたすみにあったメモ
当時の手帳を眺めていると、7月12日の欄に、小さくこういう言葉が書いてあった。
「N君、ついに頂点に!」
この日、どういう経緯でN君の消息に触れたかは不明だ。N君は大学時代の友人であった。実名で書けば、おそらくその方面では有名人であるから、君付けにするのは失礼ではある。が、大学時代は同じ体育会系のアイスホッケー部に所属し、いわば同じ釜の飯を食った仲間であった。
彼、N君は、少し後の話になるが、2014年2月28日、種子島宇宙センターからJAXA(宇宙航空研究開発機構)と三菱重工になるH-2Aロケット23号機の打ち上げの際、射場チーム長、つまり現場の責任者として打ち上げを担当し、見事にその任を果たした人である。20歳になるかならぬかの時代、彼とは京都の下宿で夜遅くまでよく語り合った。航空学科の学生であった彼は、当時から、将来は三菱重工に入社し、ロケットを打ち上げるのだと自らの夢を熱く語っていた。むろん同じ大学とはいえ、私などとはレベルの違う秀才ではあったが、それにしても夢をかなえるのは才能だけではどうにもならない。それをN君は実現しようとしていた。
小学校時代からの学友の中には、著名な政治家として活躍中の者もおり、医師として国際的に認められる成果を上げた者、一部上場企業の社長となった者達もいる。しかし彼のように、学生時代の夢を、そしてその実現には努力だけではない、他の要素が多分に必要な夢をかなえた者、という意味では私の過去の学友を見渡して、N君の右に出るものはいない。2011年7月12日、長く連絡が途絶えていた彼のことを、おそらくその彼が種子島宇宙センターで重要な職に就いていたことを、知ったのだろう。
私は心の底からうれしかった。そして、誇らしかった。そしてそういう気持ちに浸っている自分が、意外であり、やはりうれしかった。
出直すなら”1から”ではなく”0から”
もちろん、過去、友人の成功を祝ったことはある。50代半ばともなれば、かつての悪友が見事に社会的な成功をおさめることを経験する。その度“心からの祝福”を送るわけだ。しかし、正直に言えば祝福の言葉の裏には、強い嫉妬と、焦りが必ずあった。私だけかもしれない。が、そういう自分に向き合うことすら嫌でたまらなかった。人は人、自分は自分、などとんでもない。小学校一年生の頃から50代半ばを迎えようとする時まで、私には、そういうところがあった。
人間というものは、生きる時間が長くなるにつれ、持てるものになる。地位であり、お金など、私は何もありませんという人間にも、家族、学歴、積み上げた経験であったりいろんなものが纏わりついている。中でも地位や名誉はやっかいだ、失いたくない。自分の失敗は隠蔽したがる。逆にライバルの失敗を喜ぶ。少しでも自分が劣っておると見るや、嫉妬し、蹴落とそうとする。意図するしないに関わらずだ。しかし、一旦自分をリセットすることができれば、人を羨み、遅れたから焦って追いつこうとする気持ちは綺麗さっぱり消えている。あらたな気分でゼロからスタートしようとしていた。
下町ロケット
2011年8月。何度目かの採用面接の前日、巣鴨に宿をとった。昼前に到着したので本でも読もうと駅前でなにげなく手に取った本が「下町ロケット」である。一晩で読んだ。夢を語る小説であった。そして翌日の面接で再就職が決まり、長い長い就活を終えることになる。
2012年2月中国江蘇省常熟にある、日本の下町企業の中国法人で仕事をはじめ、私の中国での新たなチャレンジが始まった。
ゼロからのスタートであった。
(続く)

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