飛鳥時代へ
飛鳥時代(592―710年)は、推古天皇、聖徳太子による国家体制の整備から始まる。飛鳥時代の始まりは現在の奈良県奈良市の南方、明日香村、および後に聖徳太子が移った西北方の斑鳩(いかるが)が飛鳥時代初期の舞台である。
ところで、本稿の主人公である聖徳太子の墓は奈良県ではなく、大阪府その名も太子町にある。後の時代になって墳墓の前に叡福寺なる寺院が建てられ、墓所は現在でも美しく整えられている。墓の場所は、聖徳太子が生前指定した場所であるという。

叡福寺(聖徳太子墓所)大阪府太子町
聖徳太子には謎が多い。なぜ彼は生まれ育った明日香ではなく、自分の墓を、故郷を離れた大阪に指定したのだろうか。そんなことも考察しつつ、聖徳太子の実像に迫ってみたい。
聖徳太子
聖徳太子(574-622年)は、日本史のスーパースターである。昭和生まれの人間にとっては、まずはお札の顔として有名である。1930年の100円札を始めとして、1958年の1万円札まで、戦前2回、戦後5回と「お札の顔」としての登場回数は日本で最も多い。 聖徳太子は、第31代用明天皇の第二皇子であり、第33代推古天皇の摂政として政治を担当した。隋の律令制や官位制度に習った「冠位十二階の制度」や、日本最初の憲法である「十七条憲法」を定めた。「十七条憲法」の第一条「和を以て貴しとなす」はあまりにも有名。仏教をあつく信奉し、各地に寺を建立した。また遣隋使を派遣して大陸の文化、文物を取り入れ、日本の古代政治の基礎を築く原動力となった。民間に言い伝えられた、「一度に十人が同時に話す言葉を、正確に聞き分け、それぞれに適切な対応をした」という逸話もよく知られている。
評価の変わった聖徳太子
以上は、20世紀までの聖徳太子の評価である。1999年の代表的な日本史の教科書である山川出版社の「詳説日本史」では、「推古天皇は、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とし、国政を担当させた」「604年に聖徳太子は十七条憲法を制定し、豪族をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した」と、聖徳太子が国政の中心人物であったと記載されていた。
ところが、近年の研究の結果、聖徳太子像には修正が加えられた。2002年に改訂された同教科書では聖徳太子について次のように記述されている。「推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国際組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた」とある。
推古天皇が主語になり、聖徳太子は、その協力者に成り下がってしまっている。しかも、以前の聖徳太子(厩戸皇子)という表記は厩戸王(聖徳太子)と、微妙に変わっている。実は、現在に至っても聖徳太子については、謎が多く、その評価は定まっていない。従来通りの評価が正しいという人もおれば、実は聖徳太子はいなかったという、その存在すら疑う人もいるのだ。真実は、考古学や歴史学の研究成果を待たねばならないというのが現状である。本稿では、聖徳太子の生きた時代背景を知り、聖徳太子の真の業績を推理してみることにしよう。
聖徳太子の時代
聖徳太子の時代、6世紀終盤から7世紀にかけて、日本は国家形成期であった。生産性が高まり、人口も安定的に増加を続けていた。国としての体制を整えるために、統治システムを整えていくことが大切な時代であった。そのために、大陸から文物、技術、知識を積極的に取り込んでいくことが必要であり、同時に新しい思想や宗教も入ってきた。
仏教公伝は538年と言われているが、これは「朝廷が認めた」という年代で、それ以前から仏教は入ってきていた。仏教という、洗練され、魅力的な新思想は、まず民間に広く受け入れられた。やがて、朝廷にとっても無視できなくなり、有力豪族である蘇我氏は仏教を支持した。以後、蘇我氏によって仏教寺院が建立されていったが、寺院建立のたびに疫病が流行するということが重なったという。
神道 vs.仏教
日本には土着の信仰、すなわち神道がある。疫病は土着の神の“祟り”に違いないと人々は思う。とりわけ、蘇我氏と並ぶ有力豪族の物部氏は俳仏派であった。ちなみに、物部氏の先祖は、神武天皇がヤマト入りする際に、抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)であると言われている。物部氏は長くヤマト王権における軍事担当豪族であったが、その守り神は日本古来の「神」であり、仏教を受けつけようとはしなかったのだ。ここに、仏教受け入れを巡って、二大勢力である蘇我氏と物部氏の大論争が始まる。

聖徳太子関係系図1
さて、そのような環境の下で即位したのが用明天皇である。聖徳太子の父である。天皇、皇室の人間は当然、日本古来の神道のしきたりにのっとってあらゆる儀式を行う。ただし時代の流れには逆らえない。用明天皇は日本ではじめて仏を拝した(585年)天皇となる。それが本心からのものであるか、妥協の産物であったかはわからない。用明天皇はわずか1年8か月で崩御、次代天皇を巡って物部守屋と蘇我馬子の抗争が表面化する。
蘇我氏 vs.物部氏
日本初、そしておそらく最後の宗教戦争である。蘇我氏と縁戚関係にあった聖徳太子は、この戦いに蘇我氏側に立ち戦地に赴いたという。結果、蘇我氏側の勝利となり、物部氏は滅ぶ。蘇我氏が擁立した天皇が第32代崇峻天皇である。
蘇我氏の意向のままに、傀儡となって動くはずの崇峻天皇であったが、実際に政(まつりごと)を行う段になると、皇室の神道儀式と仏教のはざまで天皇家の危機に直面する。そのような相克の中で、即位後排仏に考え方を変えた崇峻天皇は、なんと蘇我馬子に暗殺されてしまう。
そのような状況で女帝、推古天皇が即位した。その推古天皇を補佐したのが聖徳太子なのである。
(後半)


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