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前回、紹介した台湾の高校教科書では「鄭成功の台湾到来」という項目の中で
2.経過:台湾進攻とオランダとの講和
と説明が進みます。「進攻」の結果が「到来」となるということなのでしょうか。微妙に言葉を使い分けています。
台湾進攻の経緯
ともあれ、鄭成功の台湾における漢人政権の樹立という業績は、この時のオランダとの戦いに勝利したということにあり、彼の人生のハイライトであることは間違いないでしょう。前掲のテキストでもこの時の戦いについて、文章での解説はありませんが、以下のような鄭成功清軍の経路が示されています。

鄭成功の台湾への攻撃進路
この時の戦いの様子を別資料からの引用で整理してみましょう。
1661年4月30日、鹿耳門より進攻

鄭成功時代の船(厦門鄭成功記念館)
鄭成功は台南正面を守る強固な要塞である、ゼーランディア城ではなく、鹿耳門の水道を通って直接、プロビンティア城を攻めた。
4月30日黎明時、鄭軍は霧のなか鹿耳門に到達。ゼーランディア城から鄭軍を認めたオランダ守備隊は、突然海上にあらわれた数百隻の船舶に驚く。
「霧が晴れたのち、無数の船が北汕尾港口にあるのが見えた。マストは大変多く、森のようであった」と記されていた。
当時の海岸線は現在の台南市の赤崁楼一帯で、潮の関係で船が入りにくく、鹿耳門の水路は狭く艦隊の侵入ルートはないとされていた。ところが鄭軍は大潮時を選び、多くの船舶が進入できたという。
上陸
鄭軍は午前10時ごろに、プロヴィンシア城の北西、禾寮港(現在の台南県永康氏洲子尾付近)に上陸し、馬信ひきいる先鋒隊がプロヴィンシア城を包囲。
午後1時半、鄭軍は赤崁の北に陣地を設営、オランダ軍の食料を接収しプロヴィンシアとゼーランディアの交通を遮断する。プロヴィンシア城内のオランダ兵を孤立させる。
5月1日雌雄を決する戦闘
5月1日、オランダ軍は陸上と海上双方から攻撃を開始。
鄭軍は陸海で大勝利を得る。
講和

入城する鄭成功(厦門鄭成功記念館)
5月2日、台湾評議会は鄭軍との講和を決定。鄭成功も同意した。
鄭成功は「台湾は漳州に属し、もともと鄭芝龍の土地である。しばらくオランダ人に貸していただけだ」と主張。
オランダ人は城塞や領地を差し出すべきだと強く主張し、それがいやならば開戦だと述べている。オランダ側は交渉の余地がないことを知る。
5月4日、プロヴィンシア城のヴァレンティンは、鄭軍に投降。二日後、140人のオランダ人兵士は、婦女子・奴隷とともに城を出る。鄭成功は城を接収し、この地域の制圧に成功する。
ゼーランディア城攻防戦
鄭成功は赤崁地方の統治を進めると共に、ゼーランディア城に残るオランダ勢力との戦闘を続けた。
そして、年が改まった1662年1月25日、鄭軍は、北、東、南の三方面から砲撃を開始、ゼーランディア城の堡塁を一気に破壊した。翌々日、台湾商館評議会は抵抗をあきらめ停戦を決め、2月1日オランダ東インド会社の台湾商館長であるコイエットは鄭軍に投降する。
オランダ台湾統治のおわり
2月17日、コイエットは二千人のオランダ人を八隻の船に分乗させて台湾を離れる。これにより、オランダによる台湾統治38年の歴史は幕を閉じる。
続きます。
以上、「鄭成功 南海を支配した一族」奈良修一 山川出版社 から引用しました。


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