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台湾高校歴史教科書「詳説 台湾の歴史」
「詳説 台湾の歴史」は台湾の高校生が実際に学ぶ教科書の日本語訳版です。台湾に興味のある人の必読書、もっといえば日本人の必読書といえるかもしれません。
大きく四篇に分かれ、以下のような構成です。
「詳説 台湾の歴史」目次から
| 目次 | 年代 | |
| 第一篇 | 早期の台湾 | 先史時代~1644年 |
| 第二編 | 清統治下の台湾 | 1644年~1895年 |
| 第三篇 | 日本統治下の台湾 | 1895年~1945年 |
| 第四篇 | 中華民国統治下の台湾 | 1945年~ |
第一篇の章、節は以下のようになっています。
| 第一篇 | 早期の台湾 | |||
| 第1章 | 16世紀中葉以前の台湾と原住民 | |||
| 第1節 | 先史ジグソーパズル | |||
| 第2節 | 台湾の原住民 | |||
| 第2章 | 国際競争時代 | |||
| 第1節 | 大航海時代 | |||
| 第2節 | オランダ・スペインの台湾統治 | |||
| 第3節 | 漢人政権の樹立(1961~1983年) | |||
漢人政権の樹立の節は以下のように始まります。
明帝国の滅亡

崇禎帝が首を吊り自害した木は、今も景山公園にある
1644(崇禎17年)年、流族が北京を攻め落とし、思宗は首を吊って殉国し、明帝国は滅亡した。呉三桂が清兵を関内へ導き入れると、明の皇族は南方へ移り政権を樹立した。歴史上これを「南朝」(1644~1662)と呼ぶ。皇帝となった福王が敗れて死ぬと、唐王が鄭芝龍らに擁立されて即位した。福王と唐王は共に実力のある鄭芝龍を極力抱き込もうとした。鄭芝龍の子、森は唐王より朱の姓と成功の名を下賜された。そのため鄭成功(1624~1662)と改名し、「国姓爺」と呼ばれることになる。
1646年、軍政の大権を握っていた鄭芝龍は清帝国の帰順の誘いを受け入れ、降伏した。一方南朝は唐王の死後。桂王を立て、年号を永暦とし。中国西南部で抗清を続けた。
以下、鄭成功に関する記述です。
鄭成功の台湾到来
抗清の戦いでの苦境
鄭芝龍が清に降った後、鄭成功は反清復明を呼びかけ、永暦の年号を奉じて降伏しなかった。そして他の海上勢力を撃破し、オランダの中国における商品供給源を独占し、それと同時に、台湾、日本、東南アジアへ船を派遣し貿易を行い、軍事の財源とした。
そして金門島と厦門を根拠地とし、何度も出兵して清軍と戦った。1658年には北伐を行ったが、翌年南京城外で敗北し、大きな損害を受けて金門島、厦門へ撤退した。
そして金門島と厦門を根拠地とし、何度も出兵して清軍と戦った。1658年には北伐を行ったが、翌年南京城外で敗北し、大きな損害を受けて金門島、厦門へ撤退した。
北伐に失敗した鄭成功は劣勢となります。
台湾進攻とオランダとの講和
清の圧力に押され、鄭成功は大陸を離れ、当時オランダによって統治されていた台湾を奪うため、戦います。
北伐に失敗した鄭成功は絶えず清軍の攻撃に曝された。また清朝廷は沿岸地域の住民を内陸へ移し、更に海上封鎖も行った。
長期的な抗清基地を新たに作る必要に迫られた鄭成功は、台湾でオランダ人の通訳を務めていた何斌(何延斌 生没年不詳)の建議を容れ、1661年に台湾獲得のため出兵した。
長期的な抗清基地を新たに作る必要に迫られた鄭成功は、台湾でオランダ人の通訳を務めていた何斌(何延斌 生没年不詳)の建議を容れ、1661年に台湾獲得のため出兵した。
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鄭成功とオランダとの戦い(コロンス島鄭成功記念館)
台湾上陸後はなかなかゼーランディア城を落とせずにいたが、翌年になりオランダの長官コイエット(Fredewrick Coyett、1615‐1687)は援軍を期待できない状況に陥り、兵力が優勢な鄭成功と協定を結び、台湾から撤退する以外になくなった。こうしてオランダ人の台湾の植民統治(1624‐1662)は終焉したのだった。
続きます。



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