旅の備忘録 24新春 北京Ⅳ 頤和園、雍和宮

頤和園遠景

24年正月三日

 1月3日。ここまで風邪、腰痛と、昨年からの体調不良を多少引きずっていたが、体調は戻りつつある。体調が戻れば気分的にも明るくなるというものだ。今年はだんだん良くなるなんとやら、でいきたいものだ。昨日の明十三陵・定陵で、観光地周りはそろそろお腹いっぱい状態ではあったが、メジャーどころも行っておかないと、のちのち人に北京に行って何してきたんですかと言われかねない。
 颐和园、雍和宫あたりを回ることにする。共に、清朝の最盛期、つまり康熙帝、雍正帝、乾隆帝の治世(1661年~1796年)の頃、出来上がったものらしい。中国のひとはよく明清という言い方をする。明代と清代、そして現代の中華人民共和国、冷静に見れば違う国のはずだ。清など異民族の国だから“明清”などと気安くまとめてしまっていいのだろうかと、外から見ると思う。しかし中国というキーワードでまとまっている。
 ずっと言葉を相手にする仕事をしている関係上、漢字という文字を共有することの意義がきわめて大きいと思ってきた。声に出して読んだとき、通じ合えなくても同じく漢字を理解する人々の集団は、まとまりやすい。そしてまとめやすい。遠く周代あたりから、大陸の人々は漢字でまとまってきた。
 今や普通語(プートンホワ)が中国全土に行き渡り、見てわかるだけでなく、14億人、話して通じ合える。大きくて強い国になった。
 漢字は、この国の人々をつなぐ大切な文化要素であることは間違いない。漢字なくして、中国の今の繁栄はなかっただろう。それ以外の中国の強さはなんだろう。北京にいると、なんとなくそれが見えてくる気がする。

頤和園へ

頤和園の中心下から 7時半、マイナス5度。昨日より冷えている。キリッとした寒さがむしろ心地よい。身がひきしまる。1号線で西単まで、4号線に乗り換え、北宮門へ。北京大学の少し向こうになる。思い出し再び気分悪くなる。
 颐和园北門から入る。裏門からはいったような感じ。颐和园は、乾隆帝が母の還暦祝いのために1750年に造営し、のち西太后によって再建された。巨大は湖の周囲に寺院その他の建物が囲うように建っている。やたら大きいものはこの旅の初日から見慣れて、やや食傷気味であり、普段、いろんな場所を訪れる時は、ガイドブック的知識を調べながら回るのだが、あまりそういうものをチェックせずにただ歩く。
 頤和園の写真としてよく見る風景がトップの写真。湖を望む建物まで登ってみる。寺のようだ。観音像らしきものが安置されている。ふと、この観音像は、西太后一人のためにあったのかと思った。清代、ここで手を合わせた人間はそう多くないはずだ。

私の仏との出会い

 日本人であるから神社や寺で手を合わせる機会は子どものころからあったが、私が、仏像の前で敬虔な気持ちなったのは、高校三年生の時。奈良の薬師寺を訪ね、薬師如来像の前に立った時だ。
 信仰の対象として仏像の前で手を合わせたということでなく。月光菩薩、日光菩薩をしたがえた薬師如来像の前で、じっとその黒光りした仏を見ていると、これまで何百年もの間、この場所でおそらく病に限らず、何らかの悩みをもった何百万の人々が、真剣に祈りをささげたのだという事実に、なにかとてつもなく思い衝撃のようなものを感じたのを覚えている。
 17歳の時だ。以来、日本の寺院、神社で手を合わせる時、その場所に過去の日本人のさまざまな思いが集まっているのだというような感覚に包まれる気がする。そういう感覚は私だけではないだろう。パワースポットなどという言葉もある。

薬師寺 薬師三尊

宗教を大衆のものにする

 もちろん、薬師寺薬師如来にしても、当初は天武天皇が妃の病気快癒を願って作ったものであるから、個人のものだと言えないことはない。ただ、日本の歴史の中で鎌倉仏教というのは仏教をみんなのものにした。特に親鸞はすごいなあ、と颐和园の寺院に上りながら思った。
 宗教は弱い者のためのもの。というイメージは中国人にはない。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」。何も必要ない。すべてを他力に任せてしまうような弱者が、救われないはずがないではないか。なる親鸞の言葉の限りないやさしさはどうだろう。

上一層楼 

頤和園で最も高い場所 階段を登りきると、かつて西太后だけのために作られた観音像の前に、現代中国の普通の人々が、先を争うように押し合いへし合いしている。後ろから次から次へと人が割り込んでくるので進めなくなる。いい意味で中国人は自分中心だ。日本人との違いが少し見える。北京の旅を通じて、中国人か少しでも金持ちになりたい、一段でも上に行きたいという気持ちがわかるようになった。中国は超ピラミッド社会なのだ。誰もが一段でも上にすすもうとする。明も清も、現代中国においても、それまでの数千年の歴史の過程で埋め込まれた遺伝子は、国の形が変わっても変わらない。

頤和園 湖を見下ろす

頤和園 湖を見下ろす

雍和宮へ

 大きな湖をほぼ四分の三周し頤和園西門から出る。気が付けば右足アキレス腱の痛みは気にならなくなったが、朝から歩き詰めで足が棒のようである。13時、地下鉄西郊線の地上駅から、おしゃれな車両の地下鉄に乗る。

New Subwey

 環状線10番線に乗り換え惠新西街南口5号線乗り換え、雍和宫へ。雍和宫はチベット仏教寺院で、清代の皇家寺院。創建は1694年、康熙帝が皇子(後の雍正帝)のために建てた邸宅「雍王府」が始め。雍正帝即位後は雍和宮として宮殿に昇格。乾隆帝もここで誕生している。のち乾隆帝がラマ寺院に改め、全国のチベット仏教行政の中心となったという経緯がある。漢・満・蒙・チベット、いろいろな民族の寺院建築がごちゃごちゃに混ざったようになっている。

 ここはなかなか人が多く賑やかである。皆初詣ということなのだろうか。そういえば私自身、初詣はまだだと思い本殿らしき建物の前で祈る。心の中は無心であった。

雍和宮で初詣

雍和宮で初詣

 明日は大興空港から南通へ帰ることになる。

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