2025年1月2日
旅行業とは不安ビジネスだと、旅行系YouTuberの ある人が言っていた。なるほど、と思う。人は旅に退屈な日常からの離脱を、つまり冒険を求める。ディズニーランドへ行くということにしても、疑似的な冒険と言えなくもない。
行きたいところにたどり着くことができるだろうかという不安、そこに行って楽しめるだろうか、わざわざ出かけて行っただけの値打ちがあるだろうか、すべて不安だらけである。なんらかの不安を持っていることはむしろ必須で、旅行の過程でそれらの不安が解消されていくことが、好ましい。だから旅行業というのはそれらの不安を解消することに対して報酬を受けるということだろう。
河姆渡遺跡の思い出
かつて寧波郊外の河姆渡遺跡を訪ねたことがある。スマホに示された遺跡の場所を頼りに、市内のバスを乗り継ぎ、最後は徒歩で目的地の近くまでたどり着いたはいいが、現地に行ってみると遺跡のあるのは川の向こう側。地図で見ても上流下流とも橋のある場所まで20キロ程度あるという万事休すという状況となった。どこへ行くにも、たいした下調べもせず、とりあえず出発してしまう私だったが、これまでたいていは何となく目的地に着き、目的を達成してきた。が、今回ばかりは悪運尽きた、とあきらめようと思った。川岸に立ち、ほんの100メートル程度の対岸に見える遺跡のあたりを眺め呆然としていたら、
突然視界に対岸から私の方をめがけてゆっくり動いてくる、公園の手漕ぎボートほどの大きさの船が近づいてきた。
なんのことはない。あとから知ったが、遺跡の裏側から入る客のために、渡し舟が運用されていたのだ。ちょっとした旅のちいさな経験だが、あの時の不安、残念という気持ち。そしてそれが一気に解消されるという経験が旅の醍醐味である。すくなくとも私の記憶には、順調に河姆渡遺跡に着くよりも、はるかに思い出深い記憶となって残っている。(河姆渡遺跡訪問については → こちら)
明十三陵へ
さて北京は北京飯店にいる。正月三が日の二日目を迎えた。元旦には、夜明けとともにホテルを出、北京大学の門の前までたどり着きながら、入門でしくじるという失敗をした。元旦の出来事であるだけに、いまだ悔しい思いは残っているが、それもまた旅の一興と言えなくもない。

タクシーで明十三陵へ
とはいっても、次もしくじるわけにはいかない。実は北京に来る前、ここはぜひ行きたいと思っていた場所が二か所。北京大学と明十三陵である。本日の目的地、宿泊している北京飯店からは北西の山方向に約50キロ、墓であるからけっこう辺鄙なところだろうと思う。
昨日の今日であるから、そして北京布靴の踵踏み作戦で多少助かっているとはいえ、足も完調ではない。少し贅沢とは思ったが、行きはホテル前からタクシーで出発した。小一時間で目的地、明十三陵の中で唯一発掘されているのが第14代皇帝(在位1572年〜1620年)の定陵に着いた。有名な地下宮殿を見たかった。
定陵
司馬遼太郎「長安から北京へ」にこうある。
(中略)
万暦帝のころは豊臣秀吉の朝鮮侵入やその他の外患などがあって、財政は窮迫した。そういう時代の皇帝の陵墓だけに、定陵とよばれるかれの陵墓は、豪華だとはよく書かれているものの、どこか貧乏くささが匂っているにちがいないと思っていた。ところが、思いこみがはずれてしまった。
馬鹿な男がいたと思う以外に手のないほどの豪華さなのである。
(中略)

定陵地下宮殿
この地下宮殿の建物としての全体の大きさは、ひょっとすると京都駅前の丸物百貨店よりも大きいかもしれず、むろん建築材は丸物百貨店などおよびもつかない。大理石の感触による連想のせいか、歩きながら、ヴェルサイユ宮殿をおもい出した。この地下宮殿よりも百年後に完成したヴェルサイユ宮殿は、いうまでもなくルイ十四世がフランスの繁栄と権勢を象徴させるために完成させたものである。ともかくも他に対して誇示し、他に何らかの衝撃をあたえるためのものであり、もし誰も見てくれなければヴェルサイユ宮殿というのは意味をなさない。それが常識であり、自然なことである以上、万暦帝のこの地下宮殿は異様である。
だれに見せるためのものではなく、死者となった万暦帝だけが見るべきもので、見ることを刑罰をもって激しく拒絶している建造物なのである。これを建造するのに、八百万両(明朝の歳出入の経常費は四百万両)もかかった。日本歴史に、かつてそれだけの建造物は、むろん存在しなかった。
「長安から北京へ」 司馬遼太郎 から
万暦帝、地下宮殿へ
表題の写真は定陵の入り口の門。定陵博物館とあり、複数の展示館にさまざまな展示物があったが、まず地下宮殿を目指した。

定陵(地下宮殿)
地下への入り口はあまり人がいない。階段を下りていく、段数から推定すると地下五階ぐらいまで降りて、入り口となる。この時点で期待は思いきり膨らんで、どんな感動的な地下宮殿がひろがっているのかと、恥ずかしながらどきどきわくわくしている自分を感じる。
ただ、結果は、ああこんなものね、という程度。どうも一昨日以来の首都北京の建造物の「不必要なまでの巨大さ」にある程度慣れていたのと、上の司馬遼太郎の文にある「ヴェルサイユ宮殿」「丸物百貨店」などのたとえが、必要以上に期待を膨らませすぎていたようだ。
(丸物百貨店というのは、かつて京都駅前にあった伝説の巨大百貨店、だそうだ。)
ともあれ、なかなかすごいものを見せていただいたという満足感はあり、なんとか昨日のリカバリーはできた。
帰路
実は、帰りが不安であった。タクシーはこんな山奥まで来そうにない。バス停はあるにはあった。1時間ほど待ったが来ない。ひとりぼんやりしていると、タクシーが人を乗せてやってきた。
かくして、やや贅沢に行きも帰りもタクシーで移動ということになった。
続きます。


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