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庭を眺めるという一見目立たない行為は、ぼくを含む日本人の日常生活の流れの中で意外に重要な一種の節目になっているらしい。たとえば山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』の中の同名の短編はその典型的な例の一つであろう。この小説は次のように書き出される。
「今年の梅雨は殊更に長く感じられた。三月にも四月にも雨が多かったせいだろう。私は陰鬱な気分で暮らしていた。梅雨時は必ずしも嫌いではなかった。それは繁った樹木のせいだ。青葉の繁った樹木に雨が降りかかるのを見るのは好い気持ちのものだった。紫陽花は好きだし、紫式部の薄いピンクの花が咲くのもいい。私は樹木が間近に見える居間の長椅子に坐って庭に降る雨を見ていた。そうしていると気分が沈んでくる。……」
作者の分身である主人公は、こうして庭を眺めているうちに最近次々と亡くなった肉親たちに思いを馳せていく。つまり気分がますます沈みこんでいくわけで、これは先に述べた「気分が沈む」のとは逆のように思えるかも知れないが、実は、普段は押し殺していた感情が庭の眺めに誘い出され、一種の放電を起こすことによって抑圧が解消されるのだから、本質的には「和む」のと同じ現象である。そのことは、ひとしきり死者を思った後に風呂場で顔を洗っている主人公が、葬式では決して泣かなかった自分が涙を流していることに気づく、という結末によっても明らかだ。
山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』
「極まりない」

解答(1)極まって(2)限りだ(3)の至り(4)の極み(5)極まりない
『庭の砂場』山口瞳
テキストには取り上げられてはいませんが、タイトルの『庭の砂場』にかかわる部分の描写は泣けます。以下、抜粋します。
私は、むかし読んだことのある幼児の詩を思いだす。……思いだすと言っていいのか、思いだせないと言ったほうがいいのか、これもよくわからないが、何度か記憶を辿ろうとしたことがあって、いつも諦めていた。それを読んだのが、戦前のことだったのか終戦後のことだったのか、それさえ忘れてしまった。
その詩は、小学二、三年生の男の子の詩である。幼児の詩だから、四行か五行の短いものである。だから、詩のストーリーだけは、よく憶えている。
庭のお砂場で遊んでいたら、小さなシャベルが出てきた。それは死んだ妹の玩具のシャベルだった。
それだけの詩だった。死んだ妹の、というところが実名で〇子のというふうになっていた。玩具の、というところが、オモチャンになっていた。その子は、玩具をオモチャンだと思いこんでいたのか、そういう癖があったのかしたのだろう。〇子のオモチャン……
私はそれを雑誌だか新聞だかで読んだとき、大いに心が動いた。その詩を読んだことを長く記憶しているのはそのためである。その詩が良い詩だとか悪い詩だとか、小学生の詩として傑作であるとかと言うつもりはない。しかし、その詩を読んだとき、感傷的な意味で、この詩のように単純に端的に直接的に人を悲しませる詩に出会うことはあるまいと思った。
山口瞳『庭の砂場』から
ひとしきり死者を思った後に…
「ひとしきり」「しきりに」「ひっきりなし」

下記リンクに詳述しています。





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