信長、秀吉との違い
織田信長、豊臣秀吉はけっこう派手好みだった。織田信長は安土城に、日本で始めての天守閣を作った。天守閣は、戦のためというより権威の象徴として見られることに意義があった。豊臣秀吉も豪華絢爛な建造物が好きだった。武士としては最下層の足軽レベルから成り上がった秀吉にとり、自己の達成した統一という成果を、目に見える形で残したいと思ったのも無理はない。秀吉が晩年に建てた聚楽第は、権力の象徴としてありったけの豪華さと規模を誇っていたという。竣工後8年で徳川により完全に取り壊され、往事を偲ばせるものはほとんど残されていない。が、すべての建物が金箔の瓦で覆い尽くされていた等、贅の限りをつくしたものであったらしい。
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西本願寺飛雲閣(聚楽第の一部ではないかと推定されている))
苦労人、徳川家康の人生
律儀、辛抱、倹約を美徳とした徳川家康の人格はどのようにして形成されたのだろう。彼の家柄と生い立ちから探ってみよう。
幼年期
家康は天文十一(1542)年、三河(愛知県東部)に生まれた。幼名を松平竹千代といった。当時の松平家は東の今川家、西の織田家の間のパワーバランスの中にいた。竹千代の父は今川家との関係強化のため、6歳の竹千代を今川家に人質として差し出す。しかし、あろうことか人質に送られる途中、織田方に捕らえられ、逆に織田方の人質となってしまう。二年後、今度は今川家に捕らえられていた織田信広(信長の兄)との人質交換で、今川家の人質となる。竹千代は駿府(静岡県)の人質屋敷で元服(成人となること)し、のち元康と改名する。松平家の「殿」であるべき家康は、幼年期から元服まで、部下である三河の武将とは離れたまま人質生活を送るのだ。「辛抱」の人家康はこの幼児期の逆境によって作られたのだろう。
戦国武将として
転機は永禄三(1560)年の桶狭間の戦い。今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲作戦により討たれる。今川側の先鋒として大高城にいた家康は、なんとか三河の岡崎城へ帰りつく。家康は以後、今川家を敵とし、織田信長と協力することを約した。これを清州同盟という。永禄6年(1563)には、家康と改名。68年には元の主人今川の領地を甲斐の武田と分ける協定を結び両側から今川義元の子、氏真を責め落とす。桶狭間から8年、家康は三河、遠江を領有する大大名に成りあがる。そして信長と結んだ盟約は信長が天正十年(1582)本能寺で自決するまでの20年間、かたくなに守り続ける。
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本能寺の変、織田信長死す(1582年)
本能寺で信長が死ぬと豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を、そして賤ケ岳の合戦で柴田勝家を討ち、信長の後を継ぎ天下統一へひた走る。家康は秀吉に対しても臣下とならざるを得ず、慶長3年(1598)、秀吉が死ぬまで15年、家康は忠実な部下として秀吉につかえる。生き馬の目を抜く戦国の世界にあって、信長にせよ秀吉にせよ、主君として決めた以上は従い続ける「律儀」さは出色である。
征夷大将軍として(安定化への舵取り)
歴史を振り返り、家康が秀吉と違い長期的に安定な政権を築き上げることのできた最大の理由は、「成長志向」から「安定志向」へ社会を転換させたことである。信長にしろ、秀吉にしろ、そして家康もまた、戦国を生き抜く中では、その領域を急速に拡大させていった。だからこそ勝ち残れたのである。戦国時代は、現代で言えば高度成長の時代である。組織は拡大を続けていくことによってはじめて維持できる。戦で功績を上げた武将は、敵から勝ち取った領地を与えることによって信頼をつなぎとめる。しかし、全国を統一してしまえば、武将に与える恩賞がなくなる。それどころか戦そのものがなくなる。
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徳川家康(1543-1616年)
現代の会社に例えればよく分かる。仕事の成果を挙げた従業員には給与を与える。給料がもらえなかったら誰がまじめに働こうとするだろうか。秀吉は、それまでの戦勝、恩賞、そして成長というサイクルの中で、全国統一を果たしたのちは、部下を失業させてしまうリスクがあった。それはあたかも現代日本において戦後の高度成長期が終わり、1990年代になりバブル経済が弾け平成不況に陥った時のような強烈な反動期だった。
その時、秀吉が採った対策は海外を攻めるということだった。国内市場を席巻した企業が、海外進出するようなものだ。そして秀吉は失敗し、歴史の舞台から消えた。その過程を目の前で見ていた家康は、なんとしても成長志向の社会を変えて安定化社会を作り上げる必要があった。
徳川家康のやり方
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福島正則(1561-1624年)
徳川家康は江戸幕府を開いた後、成長志向に対する危機感のため、財政の健全化、倹約を奨励した。制度としては大名統制のための「武家諸法度」、「一国一城制」、「参勤交代制」、「身分制度の確立」による身分の固定、「外国との交易の制限」など、自由な活動を押さえ、人々の成長マインドをくじくことにつとめた
さらに掛け声だけではなく、成長マインドを持ち続けた大名をあえて潰し、実例を以て天下に知らしめた。典型的な例が福島正則の改易である。福島正則は、関ヶ原の戦いで徳川家康に従い、その功績によって広島藩大名となったいわば徳川幕府の出世頭であった。しかしその後、幕府の許可なしに広島城の修築をしたことを理由に、有無を言わせず広島藩を取り上げられ、信濃(長野県)の小藩に移されてしまう。成長マインドを持ち、戦国の世ではエリートであった福島正則の処分は、見せしめとしての効果が大きかっただろう。現代の我々が家康に対して抱く「倹約」奨励の精神は、戦国の成長時代を、江戸の安定社会に着地させるための、必要な施策の一つであったといえるかもしれない。
家康像は作られた?
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重荷を背負って長き道をゆく
「律儀」「辛抱」「倹約」を美徳とするという、現代日本人が持つ家康に対するイメージには、現実の家康の生き様とは異なり、多分に理想化された部分もあるかもしれない。百歩譲って、それが後世の人々によって作られた理想像であるとしても、その家康像を人としてあるべき理想として神格化し崇めてきた江戸時代のメンタリティーは、明治維新を経て近代化した社会においても、日本人の心の隅に、規範として生きているだろう。
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