中国5000日(10)そして歯車はゼンマイと化した。

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55歳とは?

どくとる記マンボウ青春記 55歳という年齢を、どう思われるだろうか。年代によって見方は異なるのは当然だ。二十歳の頃、北杜夫の青春論を読んだ。確か冒頭に以下のようにあった。自分(北杜夫)は40歳になった、若い頃そんな年には絶対ならないぞと思っていた。その40歳に、信じられないことだが自分がなり、老体をさらして生き続ける理由をこじつけ、おそらくこれからも、言い訳と自己弁護を繰り返しながら生き続けようとしている。そして、若いみなさんに生き方まで説こうとしている。人間というものはその年その年で、自分を正当化して生き続けるということだ。みなさんも、今は馬鹿にしておるだろうが、あなただって、いつか40歳になるのだということをまず心に銘じてほしい。
 そう言われても20歳の私にはやはり遠い遠い話だったと思う。20世紀、明るい未来であるはずの21世紀は確かに必ずやってくると思っていた。ふと、その21世紀の幕開けを自分は何歳で迎えるのだろうと数えてみた。43歳!
 そんな年になってしまっていたら、いかな素晴らしい世界が来たって、きっとつまらん。そう自分は思った。結局北杜夫と同じだ。そんな自分も、やはり自己弁護を繰り返し、繰り返し、67歳になっている。そんな私が55歳、を語ろうとしている。

サラリーマン、仕事人生の成功とは?

 自分で自分をからかって笑いたい気分を抑えつつ、少しまじめに語っていこう。引用ばかりで恐縮。大前研一氏がどこかに書いていた。会社で働き始めた人間が、50歳になって、今後の見込みとして、社長あるいは取締役、あるいは関連会社の社長にもなれないとわかったら、その人のサラリーマン人生は失敗と言ってよい、と。30代でこの言葉に出会った私は、なるほどそうかと、納得し奮闘した。50歳になった時、失敗は認めたくなかったが、心の中では、すでに自分に失敗の判定を出していた。
 ただ、50歳の私はすぐさま年相応の自己弁護を初め、これを失敗とすれば、日本人の99パーセントは失敗ではないかと、自分を慰めていた。なかなか頑張ったじゃないかと、自分を正当化する心の準備まで整っていた。

あきらめたらそこで、試合終了。

 PDCA以後、紆余曲折あり。結果、やむをえずの理由で55歳の再出発をはかることになる。上海の近隣、江蘇省常熟市で、まがりなりにも200名の社員、工員を預かる総経理となる。言ってみれば大前研一の言う、子会社の社長ではないか。ものは考えようだ。今からでも逆転は可能だ。当時私はほんとうにそう思っていた。
 冒頭の質問に戻るが、私自身55歳は人生で仕事ができる最後のチャンスではないかと今になって思う。多くの人は50歳である程度仕事人生の先がみえ、見えても残された希望やしがらみを捨てきれず、結局5年、10年を惰性で過ごし、気がつけば60歳超え、そこから会社を飛び出す元気と気力はなくなっている。そして円満退社を迎える、という人が多いのではないか。それこそが安定した人生と考える人も多いのだろうか。
 確かに、私は55歳退社後、顔を合わせた過去の仲間たちは、表情には、はっきり出さないものの、決まって可哀想な人を見る目で、私をみていた。確かに収入は半分以下になった。しかし、私は過去のいつの時代にもなく、張り切っていた。

2012年- 5year diary

2012年- 5year diary

 新しい会社の東京本社は、過去長く成長するということがなく、よい意味でも悪い意味でも、業績の安定した会社であった。私を迎えるにあたって、ぜひなんらかの新規事業をとのことであった。
 赴任した2013年2月1日、日本で用意した5年ダイアリーの年間計画に大きく斜線を入れた。まずは現業でやるべき改革を実行し、速やかに成果を摘み取る。その間に新規事業の可能性を探り、私自身は4年で現業を現地中国人に譲り渡し、5年目以降は、新規事業に注力する。そういう絵を描き、実行した。

常熟生活のスタート

 基本アウェイである。最初の1年はひたすら現地幹部レベルメンバーとのコミュニケーションに努めた。通訳を介さないプライベートの付き合いは、新たなアイデアを生む。中国の日系企業、とくに小さな企業ではよく聞くことだが、通訳といっても一従業員である。例えば総経理とのパイプ役が自分一人であれば、通訳業務の中で、自分を評価させ、あるいはライバルを蹴落とそうとするのは、むしろ当たり前のことである。風通しが悪くなる。そういう状況を改善し、多少の摩擦はものともせずにやりたいことをやった。

常熟時代の執務室

常熟時代の執務室

 将来、会社を任すことのできる中国人は、現業のキーマンだったが、あえて本社留学させ、日本的管理法を学んでもらい、№2に工場を任せた。やる気のある若手メンバーの一人に、本人の希望もあり、現地法人とは全く独立した会社を作らせ、下請けをさせた。これはけっこう当たり、納期面、コスト面で大きなメリットがあった。大きな仕事はその程度だったが、細かい改善はずいぶんやった。なにせ日本人1人である。

いよいよ大学の日本語学科へも潜入

 その傍ら、赴任3か月目の5月19日、その日のことは今でも覚えている。地元の大学の日本語学科に突然押しかけ、ボランティアとして、授業をさせていただくことに了承いただいた。新規事業の調査が目的である。
 最初の2年が勝負だと思っていた。当時は、土曜日も日曜日もない生活が続いたが、つらいと感じたことはなかった。なにせ自分の自己実現のために動くのだ。結局、激務は6年続いた。それにしても、あのパワーはどこから出ていたのだろう。感心してしまうのは私が老いたからだろう。感心するとともに60歳まで、正確には61歳までの仕事人生について、まったく悔いを残さない自分を作り上げることができたと思っている。

(続く)

 

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