大学の門のことなど(中国南通にて)

南通大学南門2024年10月

 2024年秋の珍事

 中国の大学では、秋の学期もそろそろ半ばに差し掛かろうかという時期である。かねてより工事中であった、大学の三つの門の付け替え工事がほぼ完了した。
夏休みに入った7月頃から旧門の取り壊しが始まったが、当初はいったい何事が始まるのかと驚いた。南通大学は110年以上の歴史ある大学ではあっても、私の勤務するキャンパスは、数年前までは新校舎とも呼ばれ、稼働して20年もたっていないはずだ。門に欠陥があったとか、老朽化して危険な状態になったというわけでもないのに、いきなり取り壊しが始まった。

「大学の門をくぐる」ということ

 かつて、自分の卒業した京都大学の正門がいつできたか調べてみた。できたのは1893年、大学そのものよりも歴史が古い。三高時代からの歴史があるらしい。大学時代、スポーツにうつつを抜かす劣等生だったが、そんな私でも、湯川秀樹が、江崎玲於奈が、そして福井謙一が、通ったその同じ門をくぐり、研究室に向かっていたのだと思うと、なんとなく誇らしい。有名な東大の赤門に至っては、加賀藩屋敷の門として1827年に建立されたものが保存され使われている。日本人にとっては大学の門というのはそういうものだ。

京都大学正門と東京大学赤門

京都大学正門と東京大学赤門

 工事に延々四ヶ月かけた南通大学の門はなるほど立派だ。見慣れたかつての門が、どのようであったかも、すでに忘れてしまうほど、様変わりした。工事中は出入り口が限られたり、迷惑なことこの上なかったが、完成してしまうと、なかなか立派なものになったとこれはこれでよかったという気分になるのも不思議だ。

学生の出入りの多い南通大学新西門

学生の出入りの多い南通大学新西門

 大学の門の話で始めたが、こういうスクラップ&ビルドを頻繁に繰り返しながら“発展”を続けていくのが現代中国であり、現代中国の人々の価値観である。そういう点で、中国人と日本人はずいぶんちがう、ということを主張するのがこの稿の目的である。

古いものに対する態度  日本と中国

 開発のステージが違うだけだろうか?

  日本も、かつては、なんのためらいもなく古いものを破壊し、新しいものを作り続けていたではないか。同じではないかという考えもある。筆者は、そういう時代を通過してきた人間の一人でもある。国力の強化に邁進し、そのためには自然環境まで大きく破壊し、結果的には、その修復に破壊の何倍もの労力をかけてきた国が私の祖国である。発展段階で、まずは新しいもの、便利なものを優先し、ある程度落ち着いてふと周囲を見回すと、古き良きものまで破壊しつつあったことに気づく。そこでやっと、古いものを大切に保存しようという考えが生まれてくる。中国もある程度開発が終わったら、日本と同じになるだろう、という意見には説得力がある。

 中国に長く生活しているせいか、少なくとも対外的な発言では、日本びいきにならないよう、客観的に日本と中国を見ることを心がけている。それでも、である。ここはやはり、古き良きものをこよなく愛するのは、日本人が誇りうる、好ましい性質だといいたい。

大陸的思考と島国的思考

 よく言われるように、古代王朝交代時、大陸では、非征服民族は皆殺しにされた。古い体制を象徴するものは、徹底的に破壊され、新たな世界を生み出すという場合が多いと聞く。さもなければ新しい体制が危うい。人も事物も刷新される。日本では、例えば戦国時代。勝者による破壊は最小限で、農民は土地の付属物であるかのように、勝った方に丸抱えされていく。時代が変わっても、大なり小なりそういったことの繰り返しで、極端な改革や変動なく日本人は生活してきた。だから日本はダメなのだという人もいるし、だから日本はすばらしいという人もいる。

日本ならではの雑種文化

    外来の文字だの、仏教・キリスト教などの宗教も、こちらが強く抵抗してしまえば、帰って力で押さえ込まれ、古いものは駆逐されたかもしれないが、日本人はすべてを、なんとなく受け入れてしまったがために、逆に日本古来のものがしぶとく生き残り、それに取り込まれた形で、すべてが共存して一つの雑種的日本文化を形成しているのが今の日本の姿である。


 新しいものが別に嫌いなわけではないが、かといって古いものを壊してしまうのも、“相当”もったいない。そういう感情が、狩猟民族とは少し異なる、日本人的な考えであり、やり方ではないか。

神道や天皇制のこと

 日本人が、最も大切に残してきたものが、神道であり天皇制である。神道の元は自然に対する畏敬、アニミズムである。太古、森の中の洞穴に住んだ人は、自分たちを取り巻く自然を恐れた。恐れながらもその呪縛から逃れることは到底不可能であるため、なんとか自然と折り合いをつけたいと願い、共存することを願った。
 その願いが、祈りとなった。アニミズムは日本固有のものではない。多くの地方、特に森林に住む原始人が、共通して自然に対して抱いていた感情であるという。日本人のすごいところは、その原始的な自然への恐れ、祈りを、捨てることなく現代まで持ち続けているということではないだろうか。

神道の祈りの場
 神道は天皇制と密接に関わる。天皇とは何か、という課題にはそうやすやすと答えられるものではないが、自然=神への祈りを、原始の我々がそうであったような形で、もっとも正式、純粋な形で、国民に成り替わり捧げ続けてくれる存在であるというのも、答えの一つではいか。

 話はずいぶん飛躍してしまった。長い猛暑を経て、やっとたどり着いた秋。秋の夜長の妄想は、飛躍すればするほどおもしろい。

 

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