ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(感想文)

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーessay

 もう少し早く読んでおくんだったなと後悔しました。そして大げさでなく、生きてるうちにこの本に出合えて本当によかったとも思いました。少なくとも私にとっては。

 きれいな表紙にひかれて、本屋で何げなく手に取り、軽い小説かと思って買ったのですが、これはノンフィクションです。筆者ブレイディみかこさんはイギリス人と結婚し中学に上がったばかりの息子と3人で英国ブライトンに住む元保育士さん。自分のお子さんつまり、イエローでホワイトである「息子」が生活の中で遭遇するさまざまな課題を、ともに考える母親の視点で描いたものです。おもしろい異文化体験ツアーに出かけて帰って来たような読後感があります。

多様性社会の中で

 ブレイディ母子はイギリス社会の中では、いわゆるマイノリティ。ですから、社会の多様性という問題に常に当事者として向き合わねばならない日常生活を送っています。次のような会話がさりげなく交わされます。

「でも、多様性っていいことなんでしょ?学校でそう教わったけど。」

「うん」

「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの?」

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものがどうしていいの?」

「楽ばっかりしてると、無知になるから(中略)多様性はうんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知をへらすからいいことなんだと母ちゃんは思う

 さりげない会話の中に母ちゃんの哲学が感じられます。

 多様な民族が共存する社会では「多様性」そのものを拒否したり否定したりすることはできません。だから学校の先生は「多様性は悪くない」と教えるのでしょうが、子どもたちを納得させる理由をもっていないのでしょう。

 しかし、筆者は「無知をへらすため」という回答を用意されています。なかなか見事な解ではないかと感心しました。

シンパシーとエンパシー

 息子さんの期末試験の第一問は「エンパシーとは何か」。何のことかわからない父親に息子が自分が書いた答えを紹介します。

スニーカー靴「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」

 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathy は「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。

 シンパシー(sympathy)というよく知られた言葉があり、これも「同情」「思いやり」「共感」と訳される。しかしシンパシーとエンパシーはまったく違うのです。シンパシーとは相手のかわいそうな状況に対し、なんとかしてあげたいと思ってしまう、つまり自然に湧き上がる感情です。それに対しエンパシーというのは、かわいそうと思う思わないは関係なく、他人の感情を理解できる一種の能力のようなものです。まさに

「自分で他人の靴を履いてみることPut yourself in someone’s shoes」ですね。

人の立場に立って考えること

 「他人の靴を履いてみること」つまり「人の立場に立って物事を考えること(エンパシー能力)」は私自身が生き方の信条としているものです。

 ずっと以前にも書きました。サラリーマンとして仕事をしていた頃、尊敬する上司から繰り返し叩き込まれたビジネスの基本だとも思っています。

 日本語学科の上級生の学期末の授業の多くで、司馬遼太郎の「二十一世紀に生きる君たちへ」という文をとりあげ読んでもらいます。特に私が強調したいお気に入りの部分は、やはり人の痛みを知る人になってほしいというくだりです。

 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。このため、助け合う、ということが人間にとって、大きな道徳になっている。

 助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。 やさしさと言い換えてもいい。「やさしさ」、「おもいやり」、「いたわり」、「他人の痛みを感じること」、

 みな似たような言葉である。これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。

根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をして それを身につけねばならない。その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ 痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分で作りあげていきさえすればよい

 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、 他民族へのいたわりという気持ちも沸き出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は 人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。

「21世紀を生きる君たちへ」司馬遼太郎より

 司馬氏はエンパシー能力を鍛えて高めなさいと子どもだちに言っているわけですね。

私の思い上がり

 実はブレイディみかこさんの本を読んで、私は自分の思い上がりに気がつきました。

 「人の立場に立って考えよう」ということを人生のモットーにし、学生に対しても、いちばん学んでほしいことだと飽きもせず力説してるくらいなので、私自身他の人よりいわゆる人の立場に立って考える生活をしていると自分では思っていました。

 しかし実際の私を考えてみると、シンパシー、つまり自分が理解、共感できる人々には限りなく優しいが、理解できない人間の立場までわかろうとする気持ち、つまりエンパシー能力はむしろ低いのではないかと気がついたのです。

 もちろん人の立場に立つことの難しさは並大抵ではありません。以下の記事も人の立場に立つことの難しさ大切さについてのものです。

 例えば、ウソをつく、事実を隠す、弱い者をいじめる、自分のミスを認めない、金儲けのことしか考えない、どんな社会にもそういう人間は多いですね。私自身、過去そのような人間は心から軽蔑してしまっていたように思います。

 ただそういう人の多くは根っから悪い人間なのではないのかもしれません。彼、彼女らの行動はたとえば保身のためのやむをえない行動という場合もあるでしょう。例えば、もちろんあくまで「例えば」の話ですが、ウソをつかないということにこだわれば、自分の社会的立場や安全がおびやかされる人たちが、世界の中には多くいます。自分もウソつきになり真実を隠蔽しなければ、自分だけでなく自分の周囲の人間にも影響を及ぼしてしまう。

 そのような状況に追い込まれれば、例えば私でもすぐに信条を変えてウソつきになってしまうのではないかと思います。

小さなサークル

 私はこれまで、例えば会社のような、自分と価値観を共有し話の通じる、均質化された小さなサークルの中でという条件で「人の立場を考えよう」と偉そうにのたまっていたのではないだろうか。日本よりはずっと成熟した多様性社会の中で戦う親子の姿に自分の甘さを感じました。

 そんな甘い考えを、今の今までずっともち続けることのできた自分は、ずいぶんと幸せな国に生まれのだとありがたく思うばかりです。

他人の靴

 

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