「空海の風景」(司馬遼太郎)にみる人間空海

高野山雪の地蔵
南海電車高野山駅

南海電車高野山駅

 学生の卒論のようなタイトルになってしまった。( ´艸`)

 初めて冬の高野山にきた。

 私には、高野山は遠いという印象がある。過去二度訪れたことがある。最初は小学校四年生の時の二泊三日の夏季林間学校、始めての親なし遠出お泊り体験である。遠い昔のことだが印象が深い。二度目は30代後半、宇治の自宅から趣味の自転車で出かけた。地図上で100キロ程度であるから甘く見た。朝出発し昼前には登山道に入ったが夏の自転車で山登りはつらい。宿坊に着いたのは黄昏時であったのを覚えている。

 今回、思うところあり25年ぶりでやってきた。京阪、南海を乗り継ぐと2時間半程度であっけなく到着。朝ラッシュを避けて少し遅めに出ても12時前には金剛峯寺にいた。

高野山大門から紀伊山地

高野山大門から紀伊山地をのぞむ

高野山について

空海(774-835年)

空海(774-835年)

 高野山は今から1200年以上も前、空海(774-835年)によって開かれたが真言密教の聖地。標高800メートル弱の1キロ×5キロメートルに渡る山上のいわば宗教都市。全域が金剛峯寺とされている。

 空海平安仏教の基礎を作ったのが最澄と空海。比叡山天台宗の最澄、高野山真言宗の空海というのは日本人なら小学生以来の常識になる。最澄の一番弟子が以前何度か話題にした円仁(794-864年)である。

「空海の風景」司馬遼太郎

 司馬遼太郎さんの代表作「空海の風景」も何度も通読した。今回ざっと斜めに読んでみて、また若い頃とは異なる感想をもったのでメモしておく。最終章にある

 空海は、死んだ。

 という一行とそれに続く空海の死までの記述である。以前は特に考えず読み過ごしていた部分である。例えば「鑑真は死んだ。」などという表現があれば、仏教徒でない筆者でも何となく変な感覚がある。高名な仏教者であればその最後は「入定」、とか「入滅」などという方法を採り、生き続けているか、そのうち復活するかという風に終わるのが普通ではないか。

 「神は死んだ」ほどではないにしても、司馬遼太郎さんはこの「空海は、死んだ」という言葉に特別の感慨を込めたのではないだろうか。小説の最後にきて、司馬氏は空海その人を、悟りをひらき人間を超越した宗教者としてではなく、並外れた才能をもち日本の仏教のみならず文化そのものをたった一人で造りあげた一人の「人間」としてつかまえることができたのではないだろうか。

「空海の風景」あとがきから

 「あとがき」のなかにこうある。

 あたりまえのことだが、私はかれを見たことがない。その人物を見たこともないはるかな後世の人間が、あたかもみたようにして書くなどはできそうもない…(中略)空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光を当ててその起伏を浮かびあがらせ、筆者自身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できなしないかと期待した。(中略) 結局はどうやら、筆者の錯覚かもしれないが、空海の姿が、この稿の最後のあたりで垣間見えたような感じがするのだが、読み手からいえばあるいはそれは筆者の幻視だろうということになるかもしれない。    「空海の風景」あとがきから
雪の御影堂

雪の御影堂


 司馬氏が垣間見たという「空海の姿」とはどういうものなのか。かつてはよくわからなかったが、それは「人間としての死んでゆく空海」の中に、空海の姿を見つけたということではなかったのだろうか。

人間空海の死にざま

 以下、「空海の風景」の最終章後半部分でエンディングにいたるまでの記述から抜粋させていただきたい。

 司馬氏は、文献の中から、空海は自分の死期を死の5年ぐらい前から知っていた、あるいは覚悟していたとし、時系列的に最晩年の空海を追う。

死の四年前

金剛峯寺の石庭

金剛峯寺の石庭

 空海は、死の四年前に病気を理由に大僧都の職を辞めたい旨の上表文を書いている。その中に病は前年からとあったらしい。死の5年前である。年齢にすると57歳で大病を患ったということになる。

 死の前の空海は堂々としている。かれは早い時期に死期をさとり、それを予言し、しかもその予言はけれんでおこなったのではなく、予言することによって弟子たちのすべてを緊張させ、それでもってなすべき仕事を為遂げてしまおうとおこなったような印象がある。  
  みずからの「死」をも弟子育成の方便にするというあたり、もちろん並の人間ではない。神がかってるということであっても神ではない。「超人的」という言葉はもちろんあるが、それとて「人間」を形容する修辞である。

死の前年

 空海は死の前年には「穀味(こくみ)を絶つ」、つまり五穀を絶ったとある。当時としてはほとんど絶食に近いことを始めている。そのことについて、

根本中堂

根本中堂


 おそらく空海は、単に死ぬことを考えていたのであろう。自分の病いを考え、自分の死期を察し、察した以上は空海らしい卓抜な企画力と周到な計画性をもってこの死を堂々たる死に為遂げあげるべく事を進めはじめていたかと思える。穀味を断つということは、肉体のなだらかな衰えを期待していたのであろうか。衰えるということは、生命にとって一つの荘厳である。この自然に反し、栄養を補給して生命力を熾んにしたりすれば、生命力の一変形である病いがかえって力をもち、個体の中で双方が格闘してみぐるしい死をとげるかもしれないという考えが、あるいは空海にあったのではないか。想像にすぎないが。

 ここに至ってやはり「超人的」は思考であっても、その実「よき死にざま」を考える人間としての空海が見えてくる。

死の六日前

 空海は高弟をあつめ、死期がせまったことを告げ、死後「兜率天に往生し、弥勒慈尊の音前に侍るべし」と遺言する。

 兜率天にあって自分は微雲のあいだから地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。さらには、五十六億七千万年ののち、自分はかならず弥勒菩薩とともに下生(げしょう)し、わが跡を訪うであろう。(略)この言葉はまぎれもなく空海の肉声であるかと思える。かれは、弟子に対して類がないほど執拗な師匠であった。
 表現こそ「入定」を示唆するが、これとて語りの主旨は先の「弟子育成の方便」であると司馬氏自身がコメントを加えている。

空海の死

 空海の死は弟子の実慧によって唐の長安に報じられている部分が「空海の風景」のエンディングに引用されている。

「二年季春」というのは、承和二年春のすえのことである。空海は死んだ。実慧は、師匠の死を表現して、「薪尽き、火滅す。行年六十二。嗚呼悲しい哉」と書いている。
 われわれ人間は、薪として存在している。燃えている状態が生命であり、火滅すれば灰にすぎない。空海の生身(しょうじん)は、まことに薪尽き火滅した。

「われわれ人間」という言葉のやさしさ

總持院

總持院

 私は「われわれ人間」という表現の中に司馬遼太郎のやさしさを感じた。司馬氏自身が空海の生き方に自己を重ね、人が本来持つ宿命というものを理解しえた。

 そう言われても読者の私は、空海どころか、司馬遼太郎の深い思索の足元にすら及ばない存在だ。しかし、司馬氏はあえて「われわれ」と言うことで、空海はこんな風に生きて、そして死んだ。どのように生きるべきか、ほらあのスーパーマン空海を見てみなさん一緒に考えようじゃありませんか。そんな司馬氏のやさしい呼び掛けが聞こえるような気がした。

(高野山 別格本山 總持院にて)

 

 

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