「~んです」「~のです」をいつ使うか
「どうしたんですか?」「そうなんだ~」などのように、日本人は「んです」「のです」という表現を実によく使います。なぜ多用するのかということについては以前、これらは「感情を共有したいと思う気持ちを表現できる」のでついつい多用してしまうのだということを説明しました。
↓ 詳しくは以下を参照ください。
関連づけの「~んです」「~のです」
日本語教育の文法解説では「~んです」「~のです」は「関連づけ」の「んだ、のだ」というふうに説明してあります。つまり「発話」と「状況」を関連づける役割を果たす「んだ」ということなのですが、これだけではちょっとわかりにくいですね。 (「関連づけの”んだ”」については、初級日本語文法ハンドブック 3Mネットワーク、など参照)
最近YouTubeの「ゆる言語学ラジオ#14」で非常にわかりやすい説明をしていただいていたので以下にご紹介します。
「バスが遅れたんです」の含意
遅刻した学生が先生に言います。
上の二つの言い方のうち、より適切な言い方は「バスが遅れたんです」ですね。「バスが遅れました」というと事実を言っているだけで、反省の色が見えないので先生はちょっと怒ってしまうかもしれません。
ここで考えなければならないのは「んだ」を含む表現がなぜ「説明、言い訳」として適切な表現になりうるのかという「原理面」の考察です。
名詞化の「の」
「遅れたんです」の「んです」は「のです」の音便。この「の」は、初級で学ぶ「その本は私のです。」の「の」、つまり「名詞化」の「の」なのです。つまり「バスが遅れたの(ん)」は「バスが遅れたという状態」を表しています。
「です」⇒「であります」(存在文)
次に「バスが遅れたのです」の「です」に移りましょう。「です」は原日本語に立ち返ればもともと「であります」ということ。これは、いわゆる「存在」を示す「机の上にりんごがあります。」の「あります」と同じです。
上記二つを合体させて整理すると「バスが遅れたんです」は
「バスが遅れたという状態(状況)の中に私は存在する(います)。」という意味を表していることになります。
これが「発話」と「状況」を結び付けるということです。わかりやすく図示すると以下のようになるでしょう。
「バスが遅れました」という言い方は、自分に関するさまざまな状況の中の一つが「バスが遅れた」という客観的事実を述べているだけ。これに対し「バスが遅れたんです」と言うと、今話者は「バスが遅れた」という状況の中に「存在」しており、その状況に陥ったことについて話者自身の力ではどうにも仕方がない、というニュアンスが醸し出されます。
これが「んです」「のです」が以前述べたような使われ方をする理由ということになります。
自分の力ではどうも仕方がない状況にいる ⇒ 自分の責任ではない ⇒ たから許してください
という流れで、自分自身の責任を回避していることになるというわけです。
なるほど!ですね。
れる、られる
「話者の力が及ぶところではない」=「話者は関与していない」という表現は、実は日本語の中の随所に出てくるのです。
いわば日本語の特徴と言ってもいいかもしれません。
たとえばお客様にお茶を出すとき「お茶が入りました。」といいます。「入れました(他動詞)」ではなく「入りました」という自動詞を使って、文法的にはあたかもお茶が自分で湯呑みに入ったかのように言うのも一種の「自分を消す」表現。
もう一つの例。
「可能動詞」「尊敬動詞」「受身形」がすべて「れる、られる」の形で同形で表されることも初級で勉強します(日本語文法では他に「自発」用法があります)。
「れる、られる」の形の動詞がずいぶんいろいろな意味を表すのだなと思った人もいるでしょうが、意味がたくさんあるのではなく、「れる、られる」には「話者の力の及ばないこと」を表すという中心的な原義があり、使われ方によって「受身」になったり「可能」になったりするというだけのことです。
下の典型的な例を比較すれば、「れる、られる」自分ではコントロールしようのない動作を示しているということがわかると思います。
- 雨に降られる:雨が降るのは文字通り私の力が及ばぬことです。
- 生玉子が食べられる:可能動詞は典型的な無意志動詞でしたね。
- 昔が思い出される:勝手に頭に浮かぶのです。
- 社長が行かれる:社長が行くことは私の力では変えれられません。これも私の力の及ばない行為。
以上です。
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