日露戦争の時代と「坂の上の雲」
1905年5月27日、日本の連合艦隊は日本海でロシアのバルチック艦隊と海戦を行い、これを撃破した。世界の海戦史上に残る歴史的勝利と言われている。
司馬遼太郎「坂の上の雲」(1968-72年産経新聞連載)は、この日本海海戦の勝利の立役者となった参謀秋山真之、さらに彼の実兄で陸軍騎兵部隊を率いロシアコサック師団を苦しめた秋山好古、そして同時代の俳人正岡子規の三人を中心に、日本が近代国家への歩みを始めた「明治」という時代を描いた大作である。
小説の中には正岡子規の親友であった夏目漱石も登場する。この長編小説は、単なる戦争物語ではなく、さまざまなテーマが織り込まれており、近代日本語の文章語の成立というテーマもその一つである。この時期、文学者である夏目漱石や正岡子規が、現代の日本語につながる日本語、特に書き言葉の土台を作ったというのは、日頃彼らの作品に親しんでいる現代人なら、容易に感じ取ることができる。
たとえば、夏目漱石と同時代の森鴎外の小説などは、今となっては難解で読みにくいと思うが、夏目漱石の文章なら抵抗なく読める。抵抗なく読めるというのは、彼の文章が易しいということではなく、夏目漱石の文体を元に、現代の日本語が作られているからであるという見方もできる。
「坂の上の雲」の中で、司馬遼太郎氏は正岡子規、夏目漱石ら以外に、海軍参謀秋山真之もまた、現代につながる文章規範とでもいうべきものを作りあげた明治人の一人だと、小説中で言及している。秋山真之の文章はもちろん文学作品ではない。言ってみれば現代の公的文書、或いはビジネス文書につながる「機能美」を備えた規範だと、私自身思う。
天気晴朗なれども浪高し
まずは有名な、この言葉。日本海海戦の開戦に当たり、司令長官東郷平八郎から大本営に送った電文の中の「本日天気晴朗なれども浪高し」。この言葉を知らない日本人はいないというぐらいの有名なものである。この言葉自体は秋山真之の作ったものではなく、日本海海戦の当日、日本気象協会で大本営の気象予報を担当した岡田武松氏の予報「天気晴朗なるも浪高かるべし」であったと「坂の上の雲」にある。
秋山真之はすでに準備されていた大本営宛ての電文案「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす」の末尾に、早朝、岡田気象官から受け取った上の言葉を、少し変えて付け加えたというのが真相のようだ。
という人口に膾炙したフレーズが完成した。もちろん、借りものだからその価値が下がるというものではない。軍人という立場、そしていざ海戦という時になり、以下に司馬最も短い言葉でかつ必要十分な情報を報告した、みごとな報告文である。今なら「報・連・相」のテキストに載せたい模範例ということになろうか。
小説「坂の上の雲」のクライマックスで、真之の文章についての司馬遼太郎氏の語り部分を確認してみよう。
「天気晴朗」というのは視界が遠くまでとどくためにとりにがしはすくない、ということを濃厚に暗示している。さらに
「浪高し」
という物理的状況は、ロシアの軍艦において大いに不利であった。敵味方の艦が波で動揺するとき、波は射撃訓練の充分な日本側のこうに利し、ロシア側に不利をもたらす。
「きわめてわが方に有利である」
ということを、真之はこの一句で象徴したのである。
「坂の上の雲」司馬遼太郎(スペシャルドラマ「坂の上の雲」のナレーションは渡辺謙)
連合艦隊解散の辞
そして司馬遼太郎が絶賛するのは、これも秋山真之の書いたと言われる「連合艦隊解散の辞」である。
余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入にともなってはなはだしく混乱した。
その混乱が整理されてゆくについては天才的な文章を必要とした。漱石も子規もその規範になったひとびとだが、真之の文章も、この時期でのそういう規範の役目をしたというべきであったろう。
かれの文章がもっとも光彩を放ったのは「連合艦隊解散の辞」である。
「……百発百中の一砲、よく百発一中の敵砲百門に対抗しうるを覚らば、われら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。……思うに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦により、その責務に軽重あるの理なし、事あれば武力を発揮し、事なければこれを修養し、終始一貫その本分を尽くさんのみ。
神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者よりただちにこれを奪う。古人いわく、勝って兜の緒を締めよ、と」
「坂の上の雲」司馬遼太郎
今は亡き渡哲也さん演じる東郷平八郎です。(東郷は薩摩(鹿児島県)の人ですから、鹿児島アクセントで演じておられます。)
横須賀「三笠公園」
日本海海戦の旗艦、戦艦「三笠」の現物は横須賀の「三笠公園」に展示されている。筆者は2018年7月に訪れた。東郷平八郎が海戦の間、一歩も動かず立っていたというその船橋に立ってみることもできる。
「戦争」に関連することとなると、日本人は臆病になり、あえて深く考えることを避けてきたように思う。私もそうだった。
ただ、戦艦三笠の艦橋に立ち海を眺めていると、日本語だけでなく今に至る日本の近代化のすべての原点が、戦艦「三笠」の艦橋にあったのではないかと、思った。
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