鑑真と南通

唐招提寺金堂

南通滨江公園

 南通大学の西口を出てそのまま西方向に約5キロメートル行くと長江に達する。滨江公園という公園になっており、いわば市民の憩いの場である。南通大学の学生たちにとっても、今はコロナのための拘束があり、おいそれと行くことはできないが、平時は比較的手軽に行けるストレス発散の場であるようだ。

滨江公園から見る長江

滨江公園から見る長江

 この公園に、実はあまり知られていない秘密の記念碑がある。上の写真の中に小さく白破線で囲んだ部分にある。なぜ“秘密”かというとここ数年、画面左から突き出ている突堤部分へは立ち入ることができないようになっているからだ。筆者は初めて南通に来た2004年年末に、当時新しくできた南通工場で総経理として赴任したO君と一緒に、手前の南通五山の西端黄泥山を縦断し、そのまま突堤の先まで歩いた。

鑑真東渡遇険記念塔

鑑真東渡遭険記念塔と鑑真記念亭

鑑真東渡遭険記念塔と鑑真記念亭

その記念塔には「鑑真東渡遇険記念塔」とある。鑑真が日本へ行こうとして何度も失敗し、それでもあきらめず最後に悲願を達成し、彼にあてがわれた唐招提寺でその一生を終えられたという話は、中国人、日本人ともに、よく知っている。立派な鑑真記念亭なるものもあり、O君と、鑑真が南通に流れ着いたわけでもあるまいに、と中国的おおらかさを笑いあったものである。

井上靖「天平の甍」

 ところが、鑑真を乗せた船がこの付近で遭難しかけたというのは、まぎれもない事実であることを最近知った。恥ずかしながら、井上靖の鑑真来朝を扱った有名な小説「天平の甍」の中に具体的な記載があり、狼山という固有名詞まで使われていた。

船は新河に浮かぶと、瓜州鎮に出て、揚子江へはいり、東に下って狼山に至った。この頃から強い風が吹き始め、船は江中にある三つの島の周囲を旋回し続けた。一夜明けると風は鎮まった。江口へ出て越州に属する小島三塔山に着き、ここで順風を待つことにした。

「天平の甍 井上靖」より

鉴真东渡

鉴真东渡

 

鑑真は六回目の渡航で初めて日本の地を踏むが、これは天宝七年(748年)、5回目の渡航の時のことであり、この時はその後しばらくは長江河口に足止めされ、ようやく出航したが、結局は南の海南島まで流されたのである。

中国の成書「南通成陆」(陈金渊)にもこうある。

 

唐代中期·,狼五山在江中。天宝七载(748)六月,鉴真第五次东渡,船过狼山,在这里因风急浪高而旋转三山。这里的所谓三山,系指三组山。西边的黄泥山与马鞍山相连为一组,中间的狼山与剑山相隔不足百米为一组,东边的军山与中组相隔约500米,自成一组。

南通成陆 陈金渊著 苏州大学出版社 より

唐代中期に南通五山は長江の中にあった。天宝7年(748)、鑑真は日本へ向け5回目の挑戦で揚州を出発したが、南通付近で風と高波により船は三つの島の周囲を旋回した。ここで言う三山とは三組の島という意味で、連なる黄泥山と馬鞍山の二つが一組、中間の互いに100メートル隔てる狼山と剣山が一組、そこからさらに500メートル離れた軍山が一つで三組目を形成する。

唐代から今の南通五山はあり、それは海に浮かぶ島であったということになる。ならば納得できる。

唐代の海岸線(黄色部分)

唐代の海岸線(黄色部分)

 この地形でこの位置(狼山、軍山)なら、ほとんど外海といってもよいだろう。流れに翻弄されることも天候によってはあっただろう。

O君のこと

 私は記念塔の場所でとどまっていたが、O君は一人歩き続け、突堤の先灯台の裏まで行き、その場でしばらく眼前の長江を眺めていたと記憶している。

 私は東京からの短期出張者、彼は南通赴任組の一人で赴任2カ月の身であった。彼とは同い年であり、彼の家族構成も小学生の男の子、女の子一人ずつであったから、名古屋に残した家族のことでも思い出していたのであろうかと、思った。

2004年12月南通滨江公園にて

2004年12月南通滨江公園にて

 O君の訃報を聞いたのは、1か月後2005年が明けて間もなくのことであった。

 

 

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