東北地方の旅2020(二)

東北帝国大学理科大学創設地跡travel

 東北大学は工学系が優れているというイメージがある。東北大学のキャンパスで自分の技術屋人生を振り返った。

夢の超特急1964

 企業の技術者の研究テーマは自分では決められない。時代が決める。私の父は機械系の技術者であったが、新幹線の開発に多少かかわりを持っていた。父は今のJR、当時の日本国有鉄道、いわゆる国鉄の技術者であった。1964年の東京オリンピックの開催に合わせ開業できるようにと、国家のメンツをかけての開発に、父も多くの他の技術者と同様に駆り出されていたのであろう。

 小学校に上がりたての頃であった。技術者のご家族ご招待というふれこみで、開業前の新幹線に乗せてもらい、最高時速208㎞の表示を見た時の感動は今でも覚えている。(今にして思えば、単なるモルモットである。)当時は新幹線とは呼ばなかった。通称”夢の超特急”である。

0系新幹線

初代0系新幹線

光の時代

  新幹線の列車名が「ひかり」だから、ということでもない。光ファイバーの話。東北大学の西沢潤一先生(1926-2018年)は、光ファイバーの原理を考案した人と言われている。筆者は西沢先生とお呼びできるほどの立場ではなかったのだが、光ファイバーに関しては、多少なりと関連する仕事に関わったことがある。

 西沢教授が光ファイバーの原理を使って将来の通信につかえるのではないかという、おそらく当時は”荒唐無稽”な着想を提出されたのが1960年頃。次世代通信に向け、さまざまなアイデアが研究されたのち、やはり光ファイバーが本命ということに落ち着いたのは、おそらく1970年後半ではないだろうか。

 おそらくこれからは光の時代が来る、と一般にも知れ渡っていたであろう時期、司馬遼太郎氏は次のような文を残しておられた。

一昨年、大阪の町で、懇意の通信工学の教授と飲んでいたとき…

その教授は以下のような感動的なことをいった。戦後、自分たちは別の仮説をたて、さまざまな方法を考えてこんにちまできたのだが、光ファイバーにやぶれた、という。二十余年は、いわば無になった。

― 負けた者同士、飲もう。

という話があって、私と飲んだ数日前、この教授は各地の研究仲間と痛飲したそうである。私はこの話に詩を感じた。

「街道をゆく」仙台・石巻 司馬遼太郎

 さすがの司馬先生も技術の世界の話になると少し点が甘いようだ。この程度で詩を感じていただけるなら、実は私もそれなりの”詩人”かもしれないという話に移る。

私の研究者人生

 さて、上で司馬遼太郎が一昨年と言っているのは、執筆年から、おそらく1982年であると思う。私は大学院新卒で1983年に研究所での仕事を始めた。当時、すでに光ファイバーは本格的に敷設が始まり、日本列島縦断はほぼ完成、日本電電公社はその先に太平洋横断の光ファイバーケーブル敷設という大仕事をかかえていた時代ではなかったろうか。

 技術的な細かい話はしないが、ガラス製の光ファイバーはそれ単独でも光を閉じ込めて伝送できるが、さらに2種類のプラスチック材料で被覆を行い、伝送効率を高めると同時に物理的にファイバーを守る、というのが当時の方式であった。その2種類の材料をめぐって、いくつかの化学会社が競争していた。その内の一社に、私は入社していた。

光ファイバー

 採用されれば、巨大なマーケットが待ち構えている。採用されなければ研究投資含めて大きな損失となる。企業の研究者というのは常にこの種の競争をしている。新入社員の私は研究プロジェクトに参加、というより単なる作業者的な存在であったが、大物テーマに挑戦するチームの緊迫感は十分に感じながら深夜土日を問わず研究室で奮闘した。結果的に私の会社のチームは最後の最後で力尽き、最終採用は至らなかった。私の研究者生活の中での記念すべき1敗目であった。

 化学品の用途は一般の人が思うよりもはるかに広い。製造業のほとんどすべての業種における製品に用途があり、ほぼ全てのものに、やはり採用を目指しての開発競争がある。数年から十年程度の開発スパンでのテーマを複数抱えながら、勝ち負けを繰り返していくというのが技術者の人生である。

 もちろん、勝ち数より負け数の方が圧倒的に多い。私などは小さめで難易度の低いプロジェクトが多かったので、甘めに見れば20年程度の研究室生活で、イメージで”2勝12敗1分け”程度だと思う。これでもけっこう勝率の高い方である。片目も開かずに研究者生活を終える人の方が実は多い。他の業界のことは知らないが、結果、化学屋には詩的人生を送る人が多くなるのだ。

新幹線つながり

 後日談となるが、光ファイバーで敗北した我々の材料は、それまでの厳しい競争の中で相当技術レベルが上がっていたのだろう。その後マイナーな改良を加えることで、その他の分野で次々に採用されることになる。その用途の中の一つに、新幹線の床材というものがあった。

 結果的に、親子二代にわたって多少なりとも新幹線に貢献?しているのは、何かのご縁といえなくもない。そんな技術屋の昔話を東北大学のキャンパスを歩いていて思い出した。

東北地方の旅2020(三)多賀城跡、壺碑(つぼの石ぶみ)
東北旅行2日目の午後は仙台を離れ、北へ。多賀城から塩釜、松島を目指した。仙台駅からJR在来線に乗る。まずは多賀城跡へ。多賀城は創建724年と言われ、奈良、平安時代の北方支配の拠点である。

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