七千年のロマン、河姆渡遺跡へ。

essay

私はふつう初対面の人に自己紹介するとき大阪出身であると言ってしまいます。しかし正確には生まれは兵庫県川西市なのです。自宅が大阪との境に近く、学校も小学校から大阪に通っていましたから、とりあえずは大阪出身ですといっても許されると思っているのです。

そんな私の故郷の原風景は、県境に流れる猪名川(いながわ)とその背景として五月山(さつきやま)を臨む風景です。故郷を出たあとも、京都市、宇治市と移り住みましたが、基本的に美しく形の良い山並みに囲まれ、身近に川のある環境で暮らしてきました。そんな私が46歳の時初めて東京に単身赴任し、ワンルームマンションに住み始めた時、川はともかく、周囲に山が見えない土地に住むことに、なにか得体のしれない不安を感じたことを覚えています。

大阪、兵庫県境呉服橋からみる猪名川と五月山

大阪、兵庫の県境呉服橋からみる猪名川と五月山

憧れていたというとちょっと大げさかもしれません。ずっと行きたかった余姚の河姆渡遺跡を訪れました。南通から寧波へ長距離バスで移動し一泊。河姆渡遺跡まで8キロ

二日目、満を持して朝一に出発です。余姚の河姆渡遺跡は寧波の市中心の宿から西北西へ20キロ余り。地下鉄とバスを乗り継ぎ、最後は例によって、かなり手前から徒歩で目的地を目指します。

車やバスで駐車場に乗りつけて名所旧跡を巡る式の観光はあまり好きではありません。通常の名所見物もそうですが、特に遺跡見物に出かける時は、人工的に復元された住まいや遺構を見るよりもむしろ、古代の人々が定住のため選んだ地形や、彼らが見た山々や風景を見る方が想像力を刺激するものです。

実は、「街道をゆく、中国・江南のみち」の旅の中で、司馬遼太郎さんは杭州から最終目的地である寧波へ向かう列車が余姚を通過する際、河姆渡遺跡について思いを馳せておられます。河姆渡遺跡が見つかったのが1973年。司馬さんが江南の旅をされたのが1980年、当時河姆渡遺跡は一般公開されていませんでしたが、車窓から余姚の風景を眺め、この辺りの稲作の技術が、対馬ルートを経ての日本へ伝播したのではと想像をたくましくされています。

日本語の来た道(日本語の起源)
高校生の時だったと思います。大野晋博士の「日本語の起源」という本を読んでこの問題にとても関心を持ちました。以来ずっと興味をもっています。

ともかくも、河姆渡遺跡周辺の風景は、日本人の心をくすぐります。少なくとも山と川のある町で生まれ育った私には、なにやら自分の本当の故郷に戻ってきたような錯覚に陥るほど、懐かしい風景に見えました。上海、常熟、南通と、中国でも揚子江デルタの平らな場所にしか住んだことのない私には、下のような風景はとても中国のものとは思えません。

河姆渡遺跡周辺の風景

「これこそ旅行じゃなくて、旅だね。」と一人悦に入り、周囲の風景を楽しみながら歩き続けること約2時間、河姆渡遺跡へいよいよ到着というところで、大いなる間違い?に気がつきます。

河姆渡は向こう岸ナビ的には遺跡まであと100メートルというところで行く手を余姚江に阻まれてしまったのです。

しばし呆然と立ち尽くす私…。

慌てて再びスマホのナビを再び操作し直すと、徒歩3時間半!橋のある場所はずっとずっと上流のようです。さすがにここまで歩き続けた後、更に4時間弱はムリ、と諦めるのもすこぶる早い。周囲の風景を楽しみましょうと歩き回り、撮ったのが先ほどの6枚なのです。

河姆渡遺跡は向こう岸でした。

河姆渡遺跡は向こう岸!

ま、こういうのもありかもね。

「河姆渡遺跡は、遠すぎてここからは見えません。」

「見えへんかってもええのです。」

(中略)

ともかくも、河姆渡という、すくなくとも六千年前、世界最古の稲を栽培して暮らしていた文化が、どういう山川草木のなかで成立したかというかすかな想像ぐらいは、車窓からの遠望でも可能なのである。

司馬遼太郎「街道をゆく」中国・江南のみち より

はからずも、司馬先生と同じく現地を目の前にして七千年前の人々が暮らしたであろう街その場所には到達できないことになったようです。

あきらめて付近を散策した後、川岸に戻ると奇跡が待っていました。

(次回に続きます)

河姆渡でわたしは考えた。
ビジネスマンでありながら学者顔負けの博識であられる出口治明さんは、そこここの著書の中でこのようにおっしゃいます。自分を培い、支え続けているものは「本・人・旅」だと。同感です。私もこれからは、人様の迷惑にならぬように気をつけながらも、私なりの冒険の旅を続けたいと思っています。

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