南通市は高低差がほとんどありません。大河”長江”の河口の都市ですから当然なのかもしれませんが、99.9%は“まっ平”と言ってよい地形です。が、長江沿岸に、申し訳程度に五つの小山が連なって存在しています。河口に近い方から、軍山、剣山、狼山、馬鞍山、黄泥山です。すべて100mに満たず、馬鞍山、黄泥山に至っては、山というより岩の塊りと言った方が良いかもしれないような風情です。
さて、中国と日本の交流史を語る時、必ずと言っていいほど、最初に出てくるのは徐福という人物です。“徐福伝説”とよく言うので実在の確認されていない人物かと思っていましたが、近年になって、江蘇省の連雲港市に徐福村という村があり、徐福を記念した廟の存在などが見つかったことから、徐福、つまり秦の始皇帝から命を受け、不老不死の仙薬を求め東渡した人物は実在していたことが確認されているとのことです。
徐福は二度東渡(中国大陸から東へ向かって航海すること)しており、一度目は山東省、二度目は浙江省寧波から出発しています。
二回目の出発にあたって、彼は中国沿岸を南下し、途中立ち寄ったところの一つに、我らが南通がある、という“伝説”があるようです。徐福一行は、南通五山の一つ、今の軍山にとどまり、山腹から眺めたところ、狼と剣、黄色い馬を見たという。それが狼山、剣山、黄泥山、馬鞍山であるとか。上左の写真はその徐福が眺めたという場所から撮った。もちろん軍山というのは、徐福の軍がとどまったことからついた名前。
ただし、徐福は紀元前三世紀の人です。そのころ軍山も含め現在の南通市はすべて海の中にあったという可能性もあります。どうも怪しいですね。
とはいうものの徐福は日本、中国のみならず、韓国でも、それぞれの国の交流の歴史を語る際に、共通に論じられてよい人物の一人。さらに、三つの国のどこにおいても悪い評判のない、今どき(?)珍しい歴史上の有名人。その人物が南通にかかわりを持っているのだというなら、たとえ“でっち上げだとしても許せます。
そして、徐福が中国を出発し、着いたところが日本である可能性はきわめて高いと私は思います。もちろん日本以外の場所に流れ着いたという可能性もあります。ただ日本には徐福が上陸したというゆかりの地が鹿児島から北は青森に至るまで非常にたくさんあるそうです。先の徐福通滞在の伝説も含め、徐福その人は、実在したことは事実ですが、どこからやってきてどこに着いたのかということについては謎が多い人のようです。
当時、戦乱の世の大陸から、日本に渡来した人々は極めて多かったに違いありません。そういう人々が日本列島に、弥生時代という新しい時代を作ったということだけは、まあ確かなのでしょうね。
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