わたくしはこれまでの人生を、小さな部分を省いて言うと、半分を大阪で、もう半分を京都で、過ごしました。皆様への最後のコメントとして、関西人とりわけ大阪人というものをご理解いただくためのカギとなる大阪の言葉を一つご紹介させていただきます。それは「あかん」という言葉です。
物事に失敗したとき、どうしようもない状況に陥った時、標準語では「だめだ」と言いますね。関西の人間はこれを「あかん」と言うのです。ただし、「だめ」という標準語と、関西弁の「あかん」という言葉には、微妙ながら重大な違いがあります。例えば、標準語で「私はだめ」「あなたはダメ」と言いますと、それはその対象を100%否定することを意味します。
これに対し大阪の人間が「おれはもうあかん」「あんたはあかんやっちゃなぁ」と発話する時、それらは対象を完全否定するのではなく、どこかに復活再生の可能性を秘めています。とりわけ他者に対して用いられた場合、「今回はだめだった、それはしかたのないことである。しかしこれで終わったわけではないから、次は頑張ろう。」という励ましのニュアンスが含まれているのです。
「あかん」という言葉の意味に代表される大阪弁の特徴を一言でいうなら、「大阪弁とは、表現上すべてを完全に否定してしまうことが困難な言葉」なのではないかとわたくしは信じています。ついでながら、人をののしるときの言葉においてすら、標準語の「ばか」に対して、大阪弁の「あほ」という表現には、どこか相手側に、逃げ道を残してあげる、寛容性のある言葉であると関西人であるわたくしは理解しています。
言葉を学ぶ意義とは何でしょうか。それは、他国の人間とコミュニケーションをはかるという直接的第一義的な意義以外に、新たな言葉・表現を覚えることにより、過去持っていた思考経路に新たな思考のバイパスを持つという重要な意義があるとわたくしは考えます。すなわち、標準語で「だめ」という状況においても、大阪人の思考経路で「あかん」と評価することで、絶望の中から立ち直ることのできる可能性が高まるのです。なぜならわたくしたち人間は「考えたこと即ち、思考を言語化するのではなく、言語を使用して思考と行動を展開していく生物」だからです。
ご存知のように、大阪、京都、とりわけ京都には1000年以上にわたって日本の都がおかれていました。150年前、明治維新を経、関西は永く保持した首都の地位を東京に奪われてしまいました。当時の京都・大阪は、人口が激減し街の灯は消え、街全体が死んだようになってしまったといいます。関西は、このままかつての繁栄を取り戻すこともなく、ダメになってしまうのかもしれないと多くの日本人が思いました。
そんな中、大阪の人々は、もはや笑うしかないという状況の中において、「もうあかんかもしれへん、けどもういっぺんがんばろうやないか。」大阪人は思いました。結果、150年後の現在におきまして、大阪・京都は、中国人の皆様のみならず、世界中の人たちから、日本にいくなら東京よりもまず大阪、京都に行ってみたいと言っていただけるような、単なる大都市ではなく、世界中の皆様に愛されるフレンドリーな都市を築き上げることができました。
最後に。本日、皆様は特訓合宿を終え、それぞれの田舎に帰り、日本語の学習を続けられることと思います。これからの学習の課程、その後の皆様の人生において、失敗や絶望の時が訪れないとは限りません。そのような時、どうか「もうだめだ」と思うのではなく、どうか「もうあかんかもしれへん、けどもういっぺん頑張ろう」と自分を励まし、力強く歩み続けていただけることを希望します。
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