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日本を学ぶ(21)松阪の一夜。古事記の再生Ⅱ

 28歳、松阪で医者として開業した宣長。開業したての頃は患者も少なく、薬箱をぶら下げて散策していたと言われる。29歳になると、有志の歌会の一員に加わる。松阪市新町の寺、樹敬寺で30年近く続くこの歌会は参加者同士で和歌の批評をしあったり、本の貸し借り
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日本を学ぶ(20)松阪の一夜。古事記の再生Ⅰ

本居宣長は1730年5月7日、松阪市本町に生まれた。江戸に住むことなく、その一生のほとんどを三重県松阪で過ごした異色の国学者。生涯で50冊の本を著わした。中でも有名なのが「古事記伝」。江戸から、さらに言えば、京都・大阪からも遠く離れた松阪の地が、なにゆえに本居宣長のような優れた国学者を生んだのだろうか。
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日本を学ぶ(19)遣唐使の時代Ⅲ

第10回遣唐使は藤原清河を大使として752年に出発した。この使節は、朝貢の場で新羅と席次争いをしたことで知られる。各国からの使者は宮殿内で東西に分かれ整列する。東がいわゆる東側諸国、西側に中央アジア諸国を中心とした国々が並ぶ。当初、東のトップが新羅、西のトップが吐蕃であった。
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日本を学ぶ(18)遣唐使の時代Ⅱ

遣唐使で、玄宗に重く用いられた日本人に、有名な阿倍仲麻呂(698-770年)がいた。彼は渡航時19歳。その後科挙に合格、玄宗に仕えて唐の高官となる。王維や李白とも親交があり、詩人としても名を残している。日本への帰国を望んだが、果たせず、そのまま唐で生涯を終えた。代表作に「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
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日本を学ぶ(17)遣唐使の時代Ⅰ

第一回遣唐使は、推古天皇の後を継いだ舒明天皇即位の翌年630年となった。初めての遣唐使は唐の二代皇帝である太宗(在位626-649年)の歓迎を受け、632年に太宗の使者を伴って帰国する。しかし、第一回遣唐使派遣後、しばらくの間、派遣は中断される。
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「心配り」「心遣い」「気配り」「気遣い」の違い

〇 暖かい心配り、暖かい心遣い、✕ 暖かい気配り、暖かい気遣、  ✕ 失敗しないよう心配りする、失敗しないよう心遣いする、〇 失敗しないよう気配りする、失敗しないよう気遣いする、【原則】「心配り」「心遣い」はやさしさ、「気配り」「気遣い」は技能
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日本を学ぶ(16)人間空海(後編)

 806年、空海は日本に帰国する。31歳の若さではあったが、インド由来の密教の正式な後継者として日本に戻ってきたわけである。日本を離れてわずか2年しかたっていない。本来留学僧は20年間中国で学ぶルールであったものを、空海は学ぶべきものは学び終えた、とでも言わんばかりに2年で帰ってきた。そ
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日本を学ぶ(15)人間空海(前編)

神話、伝説上の人物は除外しよう。その人の生きた足跡が、ある程度正確に辿れるという前提で、日本史における天才を数人挙げてくださいといえば、かなりの確率で空海がその中に入るのではないか。さらに、世界史上、天才と言われた人物の中で、一般民衆から、もっとも親しみをもって敬愛されている人物、その答えもまた空海ではないだろうか。
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日本を学ぶ(14)聖徳太子の時代(後編)

真実は一つである。聖徳太子が、実在の人物であったか、あるいはかつて言われたような数々の業績を、本当になしたかどうか、という問題にもなんらかの結論が出される日がくるかもしれない。しかし数々の伝説とともに、その後の日本人、日本人の生活に影響を与え続けた聖徳太子
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日本を学ぶ(13)聖徳太子の時代(前編)

飛鳥時代(592―710年)は、推古天皇、聖徳太子による国家体制の整備から始まる。飛鳥時代の始まりは現在の奈良県奈良市の南方、明日香村、および後に聖徳太子が移った西北方の斑鳩(いかるが)が飛鳥時代初期の舞台である。 ところで、本稿の主人公である聖徳太子の墓は奈良県ではなく
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