日本にいちばん近い中国 南通から 2024年秋

日本にいちばん近い中国、南通 2024年秋

日本にいちばん近い中国 南通

   上海、寧波というと日本人にも馴染みのある中国大陸の沿岸都市であるが、はて南通はどこにあるかと言われて即イメージできる日本人は少ないかもしれない。中国の地図を大きく見ると東シナ海に出っ張っている頂点の部分が上海市である。上海市を上アゴと見立て、人の横顔と見ると、パックリ空いた口になる杭州湾を隔てた下アゴの部分が寧波である。そして、上アゴの上海から北、長江を隔てた鼻にあたる部分が南通市となる。南通市は、南通半島ともいうべき形状をなしている部分である。

南通は横顔の中で鼻のように少しでっぱった半島部分

南通は横顔の中で鼻のように少しでっぱった半島部分

   近年になって益々発展を続ける南通市だが、上海に隣接した場所にありながら、知名度も開発も遅れたのにはわけがある。実はこの半島部、日本で言えば奈良時代あたりには、現在の半分しかなかった。つまりペチャ鼻で多くの部分は海の中にあった。“南通成陸”という言葉もあり、大陸棚の造山運動やら長江の運ぶ土砂やらで、目まぐるしく海岸線が動き、最近、といっても4-500年前となるが、ようやく落ち着いて、まともに人が住める場所になった場所なのである。

   そして、あまり知られていないことだが、現時点では、日本の大陸部と中国の大陸部を地図上の最短距離を探ると九州は長崎半島の突端野母埼と南通市東端が最短となる。つまり日本に最も近い中国が南通ということになる。

円仁がたどり着いた南通

国清寺遺跡公園の円仁像

   いきおい古代、日本とのつながりは深かった。筆者は普段南通市の中心にいるが、仕事の関係で過去6年間、この南通市東端の海辺で週2日は過ごしている。職員用宿舎の7階から見る日の出は壮観である。初めて大陸から日の出を拝んだ時「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という初代遣隋使の親書の文言が実感できたことは以前書いた。かつて大陸を目指し命懸けで航海した多くの日本人が、あの太陽の出るところからやってきたのだ、というまぎれない“事実”を実感できたのは、得難い貴重な体験である。

   もちろん遣唐使は、波任せ風任せで中国を目指したわけで到着地点は大陸沿岸の広範囲に及んでいる。有名な空海の船が、福建省に流れ着いたのはよく知られた話である。そんな中、九州を出発し、一直線にかどうかは実際のところわからないが、ここ南通に到着。上陸間際に破舟し命からがら上陸を果たしたという、最も効率的なルートをたどった船に、かの円仁が乗っていた。

   円仁は最澄の一番弟子であり、以後の天台宗の隆盛、の立役者となり高校の教科書にも太字で紹介されるような人物であるが、空海、最澄、親鸞…などと比べるとやはりその人となりが浮かびにくい。優秀すぎて、かえって人が見えずつまらないということなのかもしれない。
   その円仁が上陸後、一定時間身を寄せた寺を国清寺といい、南通市如東県にある。現在復元されているが、2019年に円仁時代の国清寺跡が発見され遺跡公園として整備され公開されている。

掘港国清寺遗址公园

毛越寺浄土庭園

命を使い切る生きざまを求めて

  円仁の日本における業績は東日本に多く見られる。彼のひとつの到達点として、毛越寺の浄土庭園を挙げたい。東北の自然の中で、奥州藤原氏の援助を得、自由に表現された浄土の風景に身を置くと、至福の感情とともにこれを完成した円仁に対する嫉妬すら覚えてしま

毛越寺浄土庭園

う。

   筆者も世間的には高齢者と呼ばれるようになった。人の生きざまというものをしばしば思う。人の人生は、その器の大きさは天と地ほどの個人差がある。小は小なり自身の持てる能力と身体を、使い切るまで使うのが、人としての使命であり、好ましい生きざまではないかと思うようになっている。
南通の東端で朝日の方向を眺める時、あの太陽の向こうの国からはるか大陸を目指し、海を越えるには、あまりにも簡単な小さな木造船の能力を限界まで使い、破船と同時に上陸。その勢いそのままに70年の人生において、自らの能力と身体を存分に使い切り、後世に残る偉業をなした円仁のことを思う。

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