旅の備忘録 26新春 厦門Ⅱ アモイの三角梅

アモイツインタワー+1

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厦門=アモイ

ホテルの部屋には広めのバルコニーがついていた

ホテルの部屋には広めのバルコニーがついていた

 厦門のことを中国の人は、漢字を普通語の発音で読み、シアメン(xia men)という。日本人の間では、旧来の現地語読みである”アモイ”の方が通っている。日常アモイでは通じないから、私も通常普通語読みするが、心のなかではアモイである。
 港湾都市としては、おとなりの泉州ほど歴史があるわけではない。ただ、19世紀半ばに開港して以来、外国人居留地が形成され、多くの西洋人が鼓浪嶼(コロンス島)を中心に住み始めたためです。領事館、教会、学校、病院など洋風建築が立ち並んだ。さらに、海外で成功した華僑が帰郷して洋館を建てたことも影響し、アモイは中国と西洋文化が融合した独特の景観で名を馳せるようになった。
 昨日歩いた埠頭とそのそばのかつて宿泊した鹭江宾馆の横がアモイ随一の繁華街中山路の入り口、ホテルはそこから1キロ少々の中山路の終点の裏にある。古いがバルコニーのような広めのベランダがついており、外にでると通りまでは見おろせないが、年末の雑踏の明るいざわめきが聞こえる。

海沿いを散歩

 ここで6泊する。明日からは、定番どころを回ることになるだろうが、とりあえず今日は街歩きをしたい。ホテルを出ると中山路、美しい。これなら毎日歩いても飽きることはないだろう。

中山路 天仙旅社、けっこう有名な建物のようだ

天仙旅社、けっこう有名な建物のようだ

路地の風景

 通り沿いにトイレがない。聞いてみると、建物の間のほんのわずかなすき間を指さし、ここをずっと行きなさいと言われる。たしかにトイレはこちら、という案内板があるが、なんども曲がりくねってようやく公共手洗い所のようなものがある。
 後でわかったが、アモイの街中のトイレの多くはすべてこんな具合だ。うまく説明できないが、街を単位ごとに単純化するとたとえば「井」という字の形の単位になるだろう。「井」の一画一画が、路、つまりStreetである。手洗い所は字でいえば「丼」の「、」の部分にある。住居の裏の1メートル少々の路地を伝うように歩いてゆく。
 四方の路のそれぞれに入り口があるが、目標となる手洗い所は一つ。路の裏にはアモイ市民の住宅である建物(多くは三階建て)が重層的に密集して建てられているので、手洗い所に達するまでに庶民の生活の裏側を”覗く”ように歩く。
 これが、面白かった。確かに表通りも美しいが裏の込み入った小路の風景は、人に見せる作られたものでなく、アモイの人々の息づかいが感じられる空間であった。手洗いにいく用なしに、しばらく小路を歩き回ってみた。

中山路、路地裏の風景

中山路、路地裏の風景

ブーゲンビリア、三角梅

 中山路を抜け、海岸沿いを左へ、方向としては南東方向に歩く。沙坡尾まで3キロ弱。ゆるゆる歩く。大きな岩が多い。ガジュマルが立派。そういえば鄭成功さんもでかい岩の上に立ってる。印象として植物層が豊かというか、植物が生きやすい場所。
やがて目の前に双子塔が見えるあたりは工事中が続く。この辺りやがては開発されていく感じ。

沙坡尾

 すぐ、おしゃれな店がされるまちに。ここも、中山路と同じ,道は京都四条河原町のように歩道に屋根のあるアーケード形式である。確か泉州の町もこのような道が多かった。
沙坡尾は若者に人気のある通りらしい。9時半と朝早いからか、人が集まってくる様子もない。昔は船着場としてにぎわってたのか?

朝の沙坡尾

朝の沙坡尾

双子塔

 さらに進むと、市内の随所から見えるツインタワー(タイトル写真の左の2棟)が迫ってくる。こちら”双子塔”とある。ツインタワーは確かに双子塔だが、超近代的なビルの呼称として面白い。ツインタワー近くの观景平台は海に突き出た観覧所。海からの風が強いが、それも気持ちよく感じられる。
 観光客も次々とやってくる。名所なんだろうか。

胡里山砲台へ

アモイの三角梅(ブーゲンビリア)

アモイの三角梅(ブーゲンビリア)

 スマホで見るとさらに先には”胡里山砲台砲台”というのがある。そのあたりまで行ってみようと決める。波の音がザワザワと心地よく聞こえる遊歩道をゆく。ダウンは少し暑くなってきた、19度。どうりで。
 海の反対側にはブーゲンビリア、中国名”三角梅”が美しい。この夏、昆明で見た赤い花である。高地の昆明に咲く三角梅とは、多少色が違うように感じた。
 やがて大きく開けた砂浜を歩き、胡里山砲台へ向かう。

 胡里山は厦門島の東南端にあり、台湾海峡に向け砲を構える戦略的要所にある。清代以降、いくつかの争いにこの砲台は使われている。
 一番高い場所に上ると広く視界が開け、きれいな海が見えた。砲台の前に降りてみると、比較的新しい石板に、”勿忘国耻(国が辱めを受けたことを忘れるな)”という、中国ではよく見る四文字が目に入った。

砲台下の展示物

砲台下の展示資料館

 1938年5月日本軍は一度この砲台を占拠しているらしい。そのことに対する”勿忘国耻”ということである。写真の壕のような空間には、その前年の1937年9月、この砲台から海峡をゆく日本の駆逐艦を攻撃し、沈没させた記録が展示されている。あの時の成果が、抗日戦争の勝利に多大の貢献をしたのだと、紹介されていた。
 一人で資料を見ていた私と同世代の男性がいた。人がよさそうな感じがしたので声をかけてみた。もちろん日本の旅人であることを最初に言う。言わなくても多くの場合、中国人は私が日本人であるとわかる。
 老人は即座に大きめの声で明るく一言。残念ながら聞き取れなかった。この年代の中国語は聞き取れないことが多い。
「あんたの国って、悪いことしたんだよね」
そう言ったと、表情で、感じた。おそらく間違いではない。
 実は、この答えは日本人にとって、悪くはないのだ。中国に長く住んでいると分かる。彼らが対日感情を語るとき、それを過去のできこととして語ってくれるか、あるいは現在の問題として目の前の私に対して怒りをぶつけているのかを、語調で判断することができるようになった。
 この人は、抗日という言葉を、私に対し言ってはいない。そう感じることができる語調であった。そんな風にやや楽観的に受け取った。

 この日の午前、ホテルから海沿いをひたすら胡里山砲台まで歩いた。帰りはバス48番であっという間に中山路に戻る。バスは波打ち際の高架を勢いよく走った。ホテルに着いてもまだ12時であった。

つづきます。

 

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