この記事を書いている現在は、26年春である。西安、洛陽、開封をまわる旅をしてからすでに2年になろうかという時期、当時の記憶のほとんどは忘却の彼方にある。それでも何か残しておきたいと思い、残しておいたメモを頼りに記録を残しておくことにする。
24年7月6日早朝
珍しく6月中に大学での仕事がすべて終わった。帰国前に少し長旅を考えた。
6時半大学裏門からタクシーで南通興東空港へむかう。すでに32℃、これくらいなら耐えられるのだが、日中はこうも行かない。西安の涼しさに期待しよう。西安は、明日から雨の予報だが、大雨にならなければよい。この季節、多少の雨は晴天よりはるかによい。7時半、空港出発ロビーに落ち着く。
チェックインまで2時間弱ある。1人旅ではこういう時間に、日常でややもつれた心を整理できる。無駄な待ち時間のようで、実は大切なのだ。
永年勤続旅行
以前勤めていた会社の永年勤続旅行で中国を選び、初めて西安を訪れてから、すでに15年はたっているだろうか。あのころは会社でも優等生だったのだ。
西安以外にも、中国の有名な街をまわるパックツアーのようなものだった。北京から西安、桂林、そして上海経由で帰国というスケジュールだった。どこへいっても、現地で日本語のできる現地ガイドがついてくれる旅であった。
記憶に残っているシーンはそんなに多くない。兵馬俑に行ったということ、西安の城壁の上で遊覧自転車に乗ったこと、大雁塔への入り口で、
「はい、ここから一人で登ってきてください。」と言われ石段を上って行ったこと、始皇帝陵も同じような感じで一人で坂を上った。

2009年1月13日秦の始皇帝陵上部から(この階段は記憶にある)
空海の青龍寺だったか、何故かの地面のワンショット。多分猫がいたのだろう。空海の像など、忘れてしまっている。

西安の猫、同じような写真が四枚ある。なぜだろう?
記憶に残る場面
そうやって、記憶をたどり並べてみると、長く時間が過ぎて記憶に残るシーンというのには共通点がある。ガイドのあとをくっついていって見た場所、そのガイドに聞いた話などは全く消えている。そして15年経ても、頭の中にかろうじて残っているシーンは、見知らぬ場所へ、自分で一歩を、踏み出した瞬間の景色だ。
私は兵庫県川西市で生まれた。人生最初の情景は忘れもしない。初めて幼稚園に行った日である。幼稚園は地元の神社の隣にあった。徒歩10分ぐらい。神社の入り口まで母に送ってもらい、母と別れ幼稚園に向かう場面である。私にとっては、あの瞬間がその後の人生への旅立ちを示すシーンだったのだ。
大切なことがある。そういう情景は、人生の風景は、その時はそれと意識しないものだということであるである。歴史の事象と同じ、時が過ぎてから改めて振り返ってみて、ああ、あれが一つの開始点あるいは転換点だったのだと気が付くものだ。
どんな簡単な動作であっても、自分にとってのフロンティアに向かうのは勇気がいる。だからこそ、一歩を踏み出すことを恐れてはいけない。一歩を踏み出す場所はどこになるかわからない。自分の心が、自ら無意識に心に刻みつけ、あとあとになってそれを懐かしくよみがえらせてくれる。
踏み出してしまいさえすれば、あとは勝手に動いていけるのだ。人間はそういうことの繰り返しで成長する。成長するとは、踏み出す勇気を何回持つことができたかで決まる。
挑戦は若者だけの特権ではない。いくつになっても第一歩のむずかしさ、そして重要性を忘れないことが大切だ。より多く新たな一歩を踏み出していくこと、それが人生を充実させる鍵であろう。小さなことでも、ばかにしないことだ。退屈な人生を恨むな、自分にとってのフロンティアは常に自分の目の前にあるはずだ。見えないだけだ。
中国の旅
私の中国の旅は、日本について考えるのが目的だ。それだけは確かであるが、さて日本の「何」について学ぶかは自分でもまだ見えていない。
今、日本にあるものから中国由来の文化を差し引いたものが日本固有の文化であると考えることもできる。しかし、違う考え方もできる。かつての中国文化を発展変容させたものが日本文化である。引き算ではなく足し算によって日本を丸ごと理解できるということもある。
中国を理解することなく、日本を語れない。日本を理解する前にまず中国を見つめる。この姿勢で私は中国を旅する。多面性のある中国のどの部分から見ればよいか。少なくとも現代中国ではないだろう。
そう考えて、今回は中国の古都をめぐる旅をすることにした。
西安へ
10時定時に南通空港を離陸、2時間20分の空路である。空の上でつまらないことを考えた。
人間、ある程度の年齢になれば、経済的にフリー、つまりやりたいことをやる時に、金の心配をしなくてよくなる。それは、その人の人生で、過去のペースで、あるいはそれプラスいくばくかの消費を続けていっても、死ぬまでに金が尽きる心配がない状態を言う。ざっと(90−年齢)×300万円といったところか。当たり前のことだが、年齢と共に、残り金は少なくなる計算なので、私もいつかは、そうなる可能性もある。
私が40代のころ、つまりバブルが弾けるか弾けないかの頃、early retirementという言葉が流行り、私も関心があった。40歳か45歳ぐらいでリタイアし、南の島(象徴的な意味だが)でのんびり暮らすというもの。先の計算式でいけば、1.5億あれば可能だが、夢物語であった。
私の同年代の友人たちのなかには、金の心配などしなくてよいという者もいる。ただ、若い人は言う。60代になって、それこそよぼよぼになってから経済的フリーになっても、仕方ない。だから、若いうちにせいぜい遊んでおこう、と。
ただ老年期になってからでも、経済フリーは結構幸福感が高いと思う。逆に高齢になって金の計算ばかりしなければならないというのは悲劇に近い。ただ、金から完全に解放される人間は、意外なほど少ない。

2026年7月6日空から見えた西安咸陽市
そこに残るために特殊な才能は要らない。一言で言うと真面目に生きていけば良いはずだ。残念ながら、私は55歳でドロップアウトして、その後は収入的には恵まれていない。今では、それはそれでよかったと思ってはいる。が、仮に、以前の会社にお荷物となっても、しがみついておれば、収入はよほどのことがなければ、大きく減額されることはない。今頃は、左団扇とまではいかなくとも、経済的フリーに近い生活をしていたことだろう。
平凡でも道を外れず、しっかり生きていくこと。それができれば、人生は末広がりに素晴らしくなっていく。そういう人生を歩みなさいと、かつて私の母は私に言ってくれた。若い自分には何のことかわからなかった。母が亡くなりちょうど40年、やっと母の言葉が身に染みる。
老成とはこういうことであり、人として若者の未来に助言できる人でありたい。
そんなことを考えながら、西安咸陽空港へ向かった。
続きます。


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