東アジアの英雄「鄭成功」
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鄭成功像(コロンス島鄭成功記念館前)
鄭成功は、中国、日本、台湾で、今も人々の尊敬を集める歴史上の人物です。東アジアの複雑化した、国際関係の中で、そのような、つまり日中台の三国から等しく崇敬される人物は珍しいのではないでしょうか。
中華圏の若者に日本語を教える立場である筆者は、上級の日本語学習者に鄭成功、および彼の生きた時代に関わる文章をテキスト化したいと考えています。
日本人なら、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などといった著名な歴史上の人物については、どのような人物であったかある程度イメージを持っているに違いありません。正確であるかどうかはともかく、自分なりの信長像、秀吉像といったものを持っているので、好き嫌いもでてくるというものです。
今回、鄭成功についても、さまざまな文献にあたることで、私なりに、鄭成功とは、どのような人間であったかを考えつつ、作業を進めていきたいと考えています。
少し長い作業になると思いますが、鄭成功とその時代について、調べ得た内容を、その都度ブログ記事にしていきたいと考えています。
まずは、年表です。以下は「鄭成功 南海を支配した一族」世界史リブレット 奈良修一著(山川出版社)からの抜き書きです。
関連年表
| 西暦 | 鄭芝龍 | 鄭成功 | 鄭氏関連歴史 | 主な出来事 | 関連記事 |
| 1600 | 関ヶ原の戦い(徳川家康が実権掌握) | ||||
| 1603 | 家康が征夷大将軍に任命、江戸幕府成立 | ||||
| 1604 | 0 | 鄭芝龍誕生。 | オランダが福建に来航 | ||
| 1605 | 1 | 家康が将軍職を秀忠に譲る(権力の世襲化) | |||
| 1609 | 5 | 薩摩藩が琉球へ侵攻 | |||
| 1614 | 10 | 大坂冬の陣(豊臣氏滅亡) | |||
| 1615 | 11 | 大坂夏の陣(豊臣氏滅亡) | |||
| 1621 | 17 | 鄭芝龍日本へ。 | |||
| 1623 | 19 | 家光が将軍に就任 | |||
| 1624 | 20 | 0 | 旧暦7月14日鄭成功(福松)誕生 | ||
| 1625 | 21 | 1 | 李旦、顔思斉死去。鄭芝龍首領に | ||
| 1628 | 24 | 4 | 鄭芝龍が招安を受ける | タイオワン事件により日蘭交易停止~32 | |
| 1629 | 25 | 5 | 鄭芝龍、李魁奇、楊六・楊七を破る | 紫衣事件(朝廷統制の強化) | |
| 1631 | 27 | 7 | 鄭成功、福建へ 福松→森と改名 | ||
| 1633 | 29 | 9 | 科羅湾の戦い | ||
| 1635 | 31 | 11 | 鄭芝龍、鄭番を破る | 参勤交代の制度化(武家諸法度改定) | |
| 1637 | 33 | 13 | 島原・天草一揆 | ||
| 1638 | 34 | 14 | 島原・天草一揆 | ||
| 1639 | 35 | 15 | 鄭成功、生員になる | ポルトガル船来航禁止(鎖国体制ほぼ完成) | |
| 1641 | 37 | 17 | オランダ商館を出島へ移転 | ||
| 1642 | 38 | 18 | 鄭経、誕生 | ||
| 1643 | 39 | 19 | 鄭芝龍、福建都督になる | 順治帝即位 | |
| 1644 | 40 | 20 | 鄭芝龍、南安伯爵になる | 崇禎帝自殺 明滅亡 | |
| 1645 | 41 | 21 | 鄭成功、国姓爺になる 日本乞師行う | ||
| 1646 | 42 | 22 | 鄭芝龍、清朝に降伏、マツ自害 | 永暦帝が即位。 | |
| 1647 | 43 | 23 | 鄭成功、反清の軍を起こす | ||
| 1650 | 46 | 26 | 鄭成功、叔父の鄭聯を殺害、本拠地を厦門へ | ||
| 1654 | 50 | 30 | 鄭芝龍、私書事件起こる | ||
| 1656 | 52 | 32 | 鄭成功の武将黄悟が清に降伏する | ||
| 1657 | 53 | 33 | 鄭成功、延平郡王になる | 明暦の大火(江戸大火) | |
| 1658 | 54 | 34 | 鄭成功、北伐に乗り出す | ||
| 1659 | 55 | 35 | 鄭成功、南京攻略失敗 | 朱舜水、日本にいたる | |
| 1661 | 57 | 37 | 鄭成功、台湾攻略、鄭芝龍処刑 | 康熙帝即位 | |
| 1662 | 38 | ゼーランディア城陥落 鄭成功病死 | |||
| 1663 | 鄭経、厦門を回復 | ||||
| 1664 | 鄭経、台湾に退去 | ||||
| 1673 | 三藩の乱 | ||||
| 1674 | 鄭経、三藩の乱に協力 | ||||
| 1679 | 鄭克、台湾監国になる | ||||
| 1680 | 徳川綱吉が将軍に就任 | ||||
| 1681 | 鄭経、死去 鄭克も殺され、鄭克塽が統治 | ||||
| 1683 | 施琅が台湾進攻、鄭氏政権滅び一族は北京へ |
司馬遼太郎の鄭成功観
司馬遼太郎さんは「街道をゆく」中国・閩(みん)のみち の中で、鄭成功について以下のように書かれています。少し長いですが引用しておきます。
時代が漢民族の明から清に移る時代の話です。鄭成功のお父さん、鄭芝龍は、南海の交易を統括する明朝後任の海賊のリーダーとして力をふるっていましたが、北から押し寄せた女真族と相対します。
かれら(女真族)は、粗放な農業を兼ねた狩猟民族でありながら、南海の海上勢力のこわさについてはよく理解していた。福州城を陥したあと、泉州城に籠る鄭芝竜の人物や出方をよく見、暗に官位をもって釣ったらしい。鄭芝竜は、自分の価値が高く値踏みされて、あたらしい主に仕えることに馴れてきた。こんども自分のそういうルールに従って清に降参した。
「街道をゆく」中国・閩(みん)のみち より
鄭芝竜の奥さん、つまり鄭成功のお母さんは、日本人。長崎平戸の武士の娘でした。
が、妻の田川氏は従わず、夫の不忠を難じ、泉州城で憤死した。長子鄭成功は、父に似るよりも母に似ていた。かれは清軍の陣営にいる父の再三の招諭をことわり、一介の書生の身から戎服を着、父の配下をひきい、戦を展開した。
清は、子をすら招諭できなかった鄭芝竜に利用価値を認めず、さらには陸にあがった芝竜の無力さを幸いとしてこれを捕縛し、一族とともに殺してしまった。
鄭成功は、明朝の回復のみを念願とした。流浪の皇族魯王を擁し、厦門島とコロンスなどを根拠地として一大海上王国をつくり、交易圏を南洋にまでひろげた。さらに陸戦においても十数万の軍隊を組織し、揚子江をさかのぼって連戦連勝し、ついに南京城を包囲したが、敵将の哀訴を信じてあざむかれ、敗れて厦門に帰った。かれの魅力は、政略性のなさと、書生っぽさにあったろう。
「街道をゆく」中国・閩(みん)のみち より
司馬氏は、権力におもねり、それがゆえに大きく安定した力をもった父鄭芝龍とことなり、鄭成功は”母に似た”、つまり忠義を重んじ、名の汚れをおそれる武士の精神を持っていたと評価されているようです。
そして、
続きます。



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