前回( →こちら )の続きです。
繁栄ももはや価値の王座に、君臨することができない
なぜなら汗水たらした労働より、むしろゆとりをもった自由な思惟が、技術の発明に好都合であることが多いからである。機械は人間よりはるかに勤勉ですらある。かくして、勤勉は、価値の王座から落ちる。それと共に繁栄ももはや価値の王座に、君臨することができない。なぜなら、繁栄は、現在、先進的資本主義国にはほぼ実現されはじめた価値であるからである。もちろん物質的繁栄には限りがないが、今、物質は先進国において、そろそろ過剰になりはじめているのである。しかもその繁栄には、自然が犠牲に供されるのである。つまり自然を自己の意思によって征服することが、ここで繁栄の条件であるが、このように、人為により痛めつけられた自然が、人間に復讐をしないかどうかが問題である。
今日、自然は、その調和を乱しつつある。緑の山野は、一面に枯れ山となり、清流は濁流となり、野生の獣はもちろん鳥や魚も一日一日少なくなる。大都会のコンクリートの中にあって、人間が果たして生きることが出来るかどうかは、はなはだ疑問である。公害の問題は、そういう、自然破壊の一つの現れであろうが、病はもっと根本的なところにある。このような繁栄と自然制服という価値がゆらぎはじめてきているのである。
「もはや」と「すでに」

「もはや」「すでに」使い方のまとめ
今日、自然は、その調和を乱しつつある。
今日、自然は、その調和を乱しつつある。緑の山野は、一面に枯れ山となり、清流は濁流となり、野生の獣はもちろん鳥や魚も一日一日少なくなる。大都会のコンクリートの中にあって、人間が果たして生きることが出来るかどうかは、はなはだ疑問である。公害の問題は、そういう、自然破壊の一つの現れであろうが、病はもっと根本的なところにある。このような繁栄と自然制服という価値がゆらぎはじめてきているのである。
そして最後に進歩も文明の目標ではなくなる。進歩の思想において、未来は現在よりよくなるという観念がある。ここでは現在は現在として価値があるのではない。むしろ現在は、未来のために是認されるのである。こういう人生観のみが価値をもつとき、われらは父と母より価値あるが、われらの子はわれらより価値があるということになる。じじつそういう信念によって、進歩的な学生諸君は、父母や教師や大学を否定した。
しかし、今日この勤勉―繁栄―進歩の価値が急速にくずれていく。代わって遊び―自然―自由の価値観が、価値として登場してくる。ヒッピーの思想は、こういう新しい時代のはしりである。そこでは、一切の労働からはなれ、自由で、自然に帰った生活を送ることが、人間の理想となる。こういうヒッピー族が技術文明の先進国であるアメリカにおいてもっとも多く出ていることに注意したい。
このような遊びの問題について今後、この連載で他の論者によって論じられるであろうが、私は一言だけ言っておきたい。勤勉―繁栄―進歩の価値観は崩壊しようとしている。それに代わって、遊び―自然―自由が、新しい価値観として立てられようとしているとしても、なおそのような価値観は人類を長い間ささえる価値観とはならないであろう。なぜならいったん、文明の木の実を食べた人間は、再び、非文明へ逆転することは出来ないからである。対立する二つの価値観を調和する点を発見すること、そのへんに新しい文明の原理は見つけ出されると私は思う。
「~ようとしている」「つつある」「ちょうど~している」
「再度」「再び」

「再び」「再度」違いまとめ
コメント