旅の備忘録(5)赤坂~霊南坂から高橋是清翁記念公園~

高橋是清翁記念公園

旅の初日、東京へ

オズモポケットとその付属品

オズモポケットとその付属品

 7月27日早朝、猛暑が収まる気配はないようだ。
早起きし、6時33分黄檗発で出発。26℃、快晴だが、さすがにこの時間まだ温度はあがっていない。旅の荷物は極力減らすが、財布、スマホ、パソコン以外に、今回は授業用のビデオも多少高画質にしてやろうと色気が出、DJI社のポケットカメラを持参している。このカメラ、付属品がやたら多く持ち歩いて、忘れ物がないよう確認しながら、あちこち回るのはかなりうっとうしいだろう。
 パスポート、マイナンバーカードなどは面倒なので家において出る。が、免許証、クレジットカードは携帯する。半リタイアした自由の身分。きままな旅行とはいえ、身の回りにしっかり保管、管理しなければいけないものが、やたら多いことにうんざりする。
 7時33分ひかり638号。待合室で待つ。車内で充電できるので,今日一日はバッテリー問題ない。司馬遼太郎「赤坂散歩」を読み始める。車内アナウンスを聞いてると、日本人も英語が上手くなったものだと感心。駅弁も普通のが感動的においしい。日本人は幸せになった。問題はそれを、ほとんどの日本人が当たり前と思い気がつかず、あたりまえと思っていることだ。感謝しなければいけない。

赤坂散歩

 11時。水道橋のホテルに到着。チェックインまで時間があるので、クロークに荷物を預けて出る。
 水道橋から市ヶ谷乗り換え地下鉄で溜池山王へ。溜池山王駅で地上に出ると、いきなり数十メートル置きに、警官が立っている。アメリカ大使館警備のようだ。霊南坂を上がるが大使館側の右側は通行禁止。目的地の澄泉寺はスマホ上でみると、大使館の庭園とつながっている。もしや入れないのではと思ったが、ホテルオークラを通過し、ぐるっと回るとそこだけ、言ってみれば戦場の中立地帯、あるいは往来の多い車道の中のゼブラゾーンといった風情の小区域に到達する。
 「街道をゆく」赤坂散歩の最初に紹介されている、澄泉寺、正福寺、林誓寺の三寺が、かたまっている。

正面に澄泉寺、右に正福寺、左に林誓寺がある

正面に澄泉寺、右に正福寺、左に林誓寺がある

澄泉寺

 「街道をゆく」赤坂散歩にはこうある。

 心もとなく路地にもぐりこんでゆくと、はたしてそこに、民家のような建物の寺があって、「真宗高田派正福寺」とある。〔中略〕それらの奥に、小さな鐘楼をもつ寺があって、
「真宗高田派澄泉寺」
とあり、さらにゆくと古い墓地があり、墓地の向こうは、そぎ立った崖だった。
 司馬遼太郎氏は、民家風の澄泉寺の窓越しに、家事をしていた住職の夫人と思われる人に、寺の由来を聞く。
「この寺は、四百七十年前、栃木県下野(しもつけ)の真岡から江戸の桜田村に移ってきたのだそうで」
 と、いわれた。江戸で根づくうち、家康が入部してきて、江戸城が大拡張されることになり、村も寺もじゃまになった。
 それでこの赤坂台に移されたという。
〔中略〕
みると、住職の表札が、
「桜田了正」
とある。かつて江戸市街以前の桜田村にいたというしるしのような苗字である。
ともかくも、東京でもっとも古い東京人にちがいない。
 実は、司馬さんが見つけた「桜田了正」と彫られた表札が、今もあった。住職として名を次いでおられるのだろうか。思わず写真を撮ろうとスマホを向けていると、ドアが開いた。年代から察するに、かつて司馬氏が話を聞いた夫人の娘さんなのかもしれない。客人ではないことをおことわりし、本を見てやってきたことを告げる。改めて表札の写真を撮らせてくださいと言うと、おそらくそういう輩がときどきやってくるので慣れておられるのだろう。
「どうぞどうぞ」と快く許可いただいた。

東京の原風景

 司馬遼太郎が訪れて、四十数年が経過しているはずだ。表札だけでなく、この小さな区域は歴史の中で生き、歴史的時間の流れの中にあった。四十年たっても変化しない空間が、トランプ関税問題、日米関係の変化で厳重警戒態勢のひかれるアメリカ大使館裏手に、静かに存在していた。「街道をゆく」最古の東京人の項では、司馬氏は文学者らしく次のように語る。

澄泉寺を辞して表通りに出、江戸見坂に立ったとき、”現東京”の一郭から出てきたような思いがした。
『街道をゆく』赤坂散歩

氷川神社

氷川神社の大銀杏

氷川神社の大銀杏

 霊南坂をくだり、氷川神社へ向かう、アメリカ大使館の警戒態勢は最近のことらしいが、常時警戒態勢の首相官邸、国会議事堂付近はあまりのんびりとは歩けない。日本のお巡りさんは、どこかの国と違って、なかなか物腰ていねいで、親切なのだがやはりこのあたり赤坂離宮もあり、警官が多すぎて落ち着かない。
 氷川神社ちかくになり、ようやく”普通”の街になる。氷川神社は蝉が鳴いて、風がある。猛暑の中を歩いてきても、境内にないると別天地である。
 境内の大銀杏が立派である。解説をみると樹齢四百五十年とある。それだけの期間、生きながらえてきた。表からみると青々と葉が茂り、みごとである。
 しかし裏に回ると驚く。幹に大きな空洞があり、よくこれで立っていられると思うほどの損傷がある。昭和二十年の東京大空襲により大きく焼損したとのこと。歴史の傷跡の深さと、生命の強さを感じる。

高橋是清翁記念公園

高橋是清像

高橋是清像

 一旦、赤坂サカスに寄り昼食、そばを食べる。やはり東京のそばはおいしい。麺類の店、メニューは似たようなものでも、大阪では「うどん屋」といい、そばも出す。東京では「そば屋」といい、うどんも出す。これも「街道をゆく」の受け売りである。
 高橋是清は好きな政治家である。というより、他に”好き”とまで言える政治家はいない。さらにいうなら、政治音痴の理科系人間の私にとっても、割とわかりやすい。財政再建のプロで何度も大蔵大臣をつとめ、世界金融恐慌の難局に、やはり請われて大臣になり、日本という国家の健全性を守るために、かたくなに財政の緊縮化を進めたがために結局二・二六事件で暗殺された。八十三歳。

 司馬遼太郎にとっては幼い時の記憶に高橋是清がかろうじて残っているらしい。

 私など昭和二年(一九二七)のときは四歳だったが、このとしにおこった金融恐慌の気分をかすかにおぼえている。このとき高橋是清はすでに高齢で野にあったが、蔵相にむかえられた。
「ダルマさんが出てきたからもう大丈夫だ」
という言葉を、大人たちからじかにきいたおぼえがある。
「街道をゆく」赤坂散歩

 司馬氏は続けて、「明治以来の立憲国家が瀕死の状態になったのは、二・二六事件だったといっていい。高橋是清の死は、象徴的だったといえそうである」と続け、最後に

高橋是清は健康な国家を守る上での最後の水門だった
 と結論されている。
 今回の旅行のテーマは「田中正造」である。田中正造は立憲国家の黎明期に、民主化された議会を通じて、社会的弱者のために活動した人物である。そういう意味では、明治維新以来の日本の”民主化”は、初期議会での田中正造の活動あたりで、具体的な姿を現し始め、二・二六事件(1936年)での高橋是清暗殺によって、いったん停止してしまった、ともいえるかもしれない。

 帰りは公園前の青山通りをゆき、青山一丁目駅から半蔵門線に乗る。神保町から北へ徒歩。水道橋のホテルにチェックインする。

 

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