中国5000日(25)人生は舞台

人生は舞台
これまでの話もそうですが、こちらに書いていることは事実とは異なる部分が多数あります。特に登場する人物に関しては特定の人物を指すことはありません。念のため

総経理と日本語教師

  なにしろ中国で五年間、会社のトップに当たる総経理を5年経験し、時を移さず、今度は5年以上教師をやっているのである。そういう立場のどちらかを経験した人は無論少なからずいるだろうが、その双方を経験した人間は私の知るところいない。日本に置き換えて中堅企業の社長、学校の先生と考えると悪くないではないかと思えるが、ちょっと違う。社長的立場といっても、株主の叱責を受けるわけでもなく、一流企業の総経理のように、本社からの厳しいフォローと現地との板挟みに悩むこともなく、わがまま放題の立場の総経理。そして、教師になればなったで、モンスターペアレンツだの、生徒からの突き上げを受けるような心配のない、圧倒的な権力を持つ中国での教師である。そんな生活を続けざまに10年以上仮面の自分送っておれば、前回言った総経理臭、教師臭にまみれたとんでもない人間に変わり果てているのではないかと心配になったこともある。
 さて、ずいぶん自虐的なことを言うとお思いかもしれない。が、たぶん上の心配は当たっている。そして本来の自分などというものがあるとすれば、そんなものすっかり失ってしまっているだろう。しかし、失うべき本来の自分などというものが本当にあったのだろうか。結論だけ言えば、本来の自分などというものはないのだ。若い頃は、本当の自分探し、などという青臭い言葉を吐けるが、そんなものはもとより存在しない。少なくも最近の私はそういうように考えるようになった。そして強くなった。

演技をする自分は仮の姿?

 ビジネスマンが仕事をするとは演技をすることであると、以前の会社ではよく言われた。部下は部下としてその役割を演じ、部長なら部長、執行役員ならまたその立場を演じる。ビジネスの場では同じ舞台に立った各人が、それぞれの役柄を自分なりに演じてこそ、仕事が回る。その裏には一旦、仕事を離れてしまえば、上司も部下もない、“本来”の自分に戻るのだ、という“ココロ”がある。要はそういうふうに考えよ。そうすれば会社で叱責され、全人格を否定されようが、かつて流行った鬱病休職などという事態も起こらない。ちょうど、俳優が病人の役を演じたとしても、その人が本当に病気になることがないのと同じ。そういう理屈である。

演技ではない。現実?

操り人形 しかし,肝心のところで、仕事をするということは、特別の舞台に立ち演技をするというのとは違っているということに気づく時が来る。仕事上、競争に敗れる。そんな時がいつかやってくる。自分の役柄、つまり出番を失った者は退場していけばよい。演技なら舞台からひけて“本当の日常”に戻るが、実際の会社員なら遠隔地に別の職場を与えられたりする。ひどい場合は“たらい回し”になり、各地を転々とする。私だけの話ではなく、一般的にそうだろう。
 そういう冷遇が、当人だけの問題であれば、それでもまだ舞台の上で逆境の人を演じているだけさ、と納得もできようが、残念ながらその人間の周囲には家族がおり、友人がいる。周囲の人々には、周囲の人たちなりの“舞台”があり生活がある。このあたりで、多少まともに考える頭を持った人間なら、仕事は演技、会社は舞台などというものの言いようは、所詮、順風満帆な会社人生を送っている一握りの主役級のエリートの、言い訳程度の質の悪い比喩なのだと気づくだろう。

舞台を降りて本当の自分に出会えるか?  

 本当の自分と、仕事の世界の自分とは別物であると信じていた人間が、仕事の世界で傷を負い、ふと本来の自分に戻ろうと舞台から降りてみる。すると、実はその傷が本物であり、かつ癒しがたいものであると気付き衝撃を受ける。それは実際に傷があるから衝撃を受けるのではなく、“本当の自分”があるのだと頑なに信じていた人間が、実はそんなものはないと気付かされた時の衝撃である。多くの人はそこで精神の均衡を失い、甚しきに至ってはいわゆる“本当の鬱病”になる。

公私の境界線上で  

 一般的には、仕事上形成された人格が、その人間の本来の自分に影響を与えると考える。タクシーの運転手ならオフの日でも駅前に並んでいる車の数や街ゆくタクシーの数が気になるだろう。本屋の店員なら、自分が本を見るために入った書店の本の陳列方法について何か言いたくなるだろう。私が前の会社で最後に所属した部門では“高吸水性樹脂”なる,紙おむつや女性用生理用品の材料となる高分子製品を作っていたが、営業マンたちはふと立ち寄ったスーパーやコンビニで、陳列棚に並べられた、いわゆるナプキンを手に取りいじくり回して周囲から奇異の目で見られることを職業病と称していた。 そういったことは、本来の自分というものがあり、仕事から離れても本来の自分に戻ることができないことに対する自嘲であり、ある人にとっては誇りであるのだ。

人間ラッキョウ、皮をむけばなにもない自分  

空(くう) 2012年、中国に発った後、私は以下のように考えるようになっていったのだろうと、今になって気がつく。要は、本来の自分などないのだ。であればこそ、自分は何にでもなれる。仕事だけが人生という気はさらさらない。中国社会で総経理というアクの強い人間を演じているのも自分、俺さまは先生様なるぞと、ごく少数の、世間を知らない若者たちの前で王様のように君臨し、その実大人同士の議論には負けるに決まっているので加わろうともせず、負け犬集団である教師の小さな仲間内でお互いの傷を舐め合いながら生きながらえている落ちこぼれも自分。
 そういうイヤらしい臭いにまみれた自分がいやだと思う感情がわくのは、本来の自分というものがあり、そこに戻るのに苦労するぞと内心ビクビクしているからである。本来の自分など、元からないのだと思ってしまえば、どんな役も気楽に演じることができる。総経理臭も、教師臭も、身体に纏っている衣装と同じ、脱ぎ去ってしまえばすべてがゼロ。いやらしさが染み付いてしまうような身体、つまり本当の自分なども全て仮のもの、人間というもの陳腐な言い方をすれば“空”なのだとしておけば、怖いものはなくなる。そういう怖いもの知らずの大胆さと覚悟を、2012年の私は、確かにもっていた。

NEXT

 

BACK
中国5000日(24)中国で総経理、中国で日本語教師。結果は?
「あの方はいわゆる総経理臭のない方ですから気軽に相談にのっていただけると思いますよ」  就職活動をしていた頃、上海の某就職斡旋会社の若い女性からこんな言葉を投げかけられた。「総経理臭」という初めて聞く言葉が印象的で今でもそのことをよく覚えている。私自身、中国ビジネスに多少は関わってきていたので

コメント

タイトルとURLをコピーしました