日本を学ぶ(30)日本語クライシスⅠ

日本を学ぶ
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

はじめに

 明治以降、近代化の名のもとに、日本語、特に漢字、平仮名、片仮名の三つの文字種を混ぜて使う表記方法は、幾度となく危機にさらされてきた。日本語の存続を脅かす要因には、欧米化の流れや国語改革の試み、さらには戦後のGHQによる政策などがあった。こうした歴史の中で、日本語がどのように存続し、現在に至るのかを概観してみよう。

前島密(1835-1919年)の漢字廃止論

前島密の業績

前島密(1835-1919年)

前島密(1835-1919年)

 前島密は、越後(現在の新潟県)生まれ。ペリー来航(1853年)から明治維新(1868年)の激動期を青年期に経験する。維新後は維新の立役者で新政府の中核的人物であった大久保利通(1830-1878年)とも親交を深める機会があり、1866年幕臣となる。
新政府への貢献は大きい。1円切手の肖像として現在でも広く一般に知られているのは、郵便制度の創業。1871年(明治4年)3月、彼の発議により、東京大阪間で日本初の郵便事業が開始されたからである。また日本初の鉄道は1872年9月新橋横浜間に正式開業したが、これも前島のプランに沿ったものである。
 また東京遷都についても面白い逸話が残されている。明治新政府の大久保利通は新しい都をほぼ大阪に決めていた。そんな彼にある日、匿名の投書がある。首都は東京にという投書である。大久保はその投書を読んで、翻意し東京遷都を決めたという。大阪は古来、栄えてきた。首都にならなくても何とかその繁栄を続けていくだろう。それに対して今、東京を手放せばその衰退は目に見えている。また、今後日本の大きな課題である北海道の開拓を進めていくにも東京への遷都は有利である、などなど。論理的に理路整然と記述された投書の内容に、大久保は心動かされたという。ずっと後になって、「あの時の手紙は私でした」と名乗ったのがなにあろう前島密である。

 前島密は、匿名でも国家のトップを動かせる名文を書くことができた。それほど言葉の重要性を大切にし使いこなした人物であったということを言うために、少し本題を違うエピソードを入れた。

前島密の業績の一つ、新橋ー横浜間鉄道開通(1872年)

前島密の業績の一つ、新橋ー横浜間鉄道開通(1872年)

前島密の漢字廃止論

 そんな彼が、漢字廃止を提案したのである。最初は明治維新の前、幕臣であった時、「漢字御廃止之議」なる建議書を将軍徳川慶喜に提出した。また建白書の中で前島は、国家発展の基礎が教育にあるとして、国民教育の普及のためには、学習上困難な漢字、漢文を廃止して仮名文字を用い、最終的には、公私の文章に及ぼすべきことを提唱している。さらに、口談と筆記を一致させることなどについて、漢字使用の弊害を例示しながら力説している。口談と筆記の一致、すなわち言文一致を提言したという意味でも歴史的な提案といえる。
 新政府になって後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んでいる。彼は、郵便制度事業を創出する仕事においても、郵便用語として「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」などの和語を導入していることからも、日本語から難解な漢語を排していこうという彼の意志の表れである。同時期にできた和製漢語、「政治」「銀行」「会社」「社会」「哲学」などの言葉がほとんど漢字の音読みからなっているのと好対照である。
 結局、前島密の漢字廃止論は、彼の意思を引き継いでいく人材に恵まれずいつしか立ち消えになった。前述のように、前島密は多くのことをなした。郵便制度の創設、江戸遷都を建言、鉄道敷設計画の立案に加え、新聞事業を育成したり、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創設に参画して初代校長を務めたりと、数々の偉業を成し遂げてきた。彼が手がけた中で、漢字廃止だけは唯一実を結ばなかったことということになる。

森有礼(1847-1889年)の英語国語化論

欧化論者、森有礼

森有礼(1847-1889年)

森有礼(1847-1889年)

 森有礼は、日本の近代教育制度の確立に尽力した政治家であり、日本語廃止論を唱えた人物としても知られる。彼の日本語廃止論は、西洋の学問・文化を迅速に取り入れるために英語を公用語とすべきだとする主張であった。
 森は1847年薩摩(今の鹿児島県)の藩士の子として生まれる。慶応元年(1865年)、後に大阪経済の立役者となる五代友厚らとともにイギリスに密航、留学する。ロンドンの大学で学んだ後、ロシアを旅行、次いでアメリカにも留学した。この彼の経歴が、明治維新後の政府において、欧化推進という彼の考え方が形成されていったようだ。
明治6年(1873年)夏、帰国する。福沢諭吉、西周ら日本啓蒙主義者たちと明六社を作る。その後、公使などを務める。この頃から英語公用語化の構想を持ち始め、「日本語は国際的に不利であり、英語を採用すれば日本の近代化が加速する」との考えを示すようになる。
1885年(明治18年)、伊藤博文内閣発足に伴い、初代文部大臣に就任すると、学校制度の整備を進める中で、英語教育の強化を推進する。

国粋主義者による暗殺

 明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、参加するため官邸を出た所で一人の国粋主義者に短刀で脇腹を刺され死亡。43歳だった。事件の前、新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となり、これが事件の引き金になったと言われた。(事実は「大臣」は森のことではなかった)
 彼の死によって急進的な言語改革の試みは頓挫する。その後も、日本語の表記改革や英語教育の強化は進められたが、日本語自体の廃止に関する議論は起こらなかった。
 森有礼の日本語廃止論は、近代化のための手段として英語を重視するものであったが、言語は文化と密接に結びついているため、結果的に大きな支持を得るには至らなかった。しかし、彼の理念は戦後の英語教育の重視などに引き継がれていったと言える。
 蛇足ながら、森有礼が初代文部大臣であり、彼自身、極端な欧化主義者であったことからも、森の英語公用語化論は、日本語の危機として大げさに語られることも多い。しかし、現実に彼が英語公用化を政府の政策として進めたという記録はなく、話しとしてやや誇張されて伝えられている部分も多いと考えられる。
(続く)

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