日本を学ぶ(9)天皇の誕生 神武東征

日本を学ぶ(青)
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

古事記と国譲り

 本稿での古事記の物語は、出雲地方でクニを築いたオオクニヌシが、アマテラスの求めに応じて「国譲り」を行い、現在の日本が、アマテラス(日照)の国となり、クニを譲ったオオクニヌシは、当時としては最大級の規模の宮殿ともいえる出雲大社を与えられることで、一件落着となった話まで進んだ。

国譲り

国譲り

 国譲りの物語は、全くの作りごとではない。遠い昔、実際に大規模な政権交代劇があったことは事実であろう。しかしその政権交代が、古事記に記されたように、大した争いもなく成し遂げられたかどうかについては、疑問点も多い。出雲の国の中で、国譲りに反対したのが、タケミナカタだけであったとは考えにくい。実際は、力で敗れ去ったオオクニヌシの霊を慰めるため、アマテラス側が“鎮魂”のため、つまり祟りを恐れてオオクニヌシの霊魂を出雲大社に閉じ込めたのだ、と考えることもできる。

祟りを鎮める、鎮魂という考え方

 蛇足ながら付け加えると、この祟りを恐れるあまり亡くなった政敵を神として神社に祀る、ということは、日本の歴史においてくり返しなされている。典型的な鎮魂の対象は、学問の神様と言われる菅原道真(845-903年)である。

北野天満宮

北野天満宮

 道真は宇多天皇に重く用いられ右大臣にまで上ったが、藤原北家の藤原時平(871-909年)の陰謀によって、都から九州大宰府に追い落とされ(左遷され)不遇の一生を送った平安時代の人物。京都にある北野天満宮、九州に太宰府天満宮は、死後怨霊として恐れられるようになった道真の霊を鎮めるためにつくられた。菅原道真はのち天神と呼ばれ、学問の神となり天神信仰として現在にいたる。
 実際の国譲りがどのような形であったかはわからないが、少なくとも古事記の中では比較的平和裏に政権交代が行われ、出雲を中心とするクニはアマテラスのものとなった。歴史は常に勝者によって勝者に都合よく書かれる。だから真実ではないかもしれない。ただ、真実ではないから意味がないと捉えてしまうと味気ないし、物事の見かたを誤ることもある。真実ではない脚色を加えたものであるだけに、その後の世の中の人々に対するメッセージとして、こうあってほしい、こうであればよかったのにという反省や期待が込められているかもしれない。そのようにして歴史の行間が読めることもあるということだ。

神武東征の物語

 さて、ヤマトを中心とした広域を統治する、国の誕生にはもう少しの段階を経なければならない。日本神話の中では、クライマックスとも言える神武東征である。クニを譲られたアマテラスは、九州日向の国(今の宮崎県)にアマテラスの孫にあたるニニギを降臨させる。天=アマテラスの孫が降臨したので、そのまま“天孫降臨”という。
 二ニギについては、人間的なエピソードが多いが、ここでは一つだけ彼の結婚とその顛末について簡単に触れる。彼は地上に降りて絶世の美女サクヤコノハナ姫と結婚しようとするのだが、コノハナ姫の親から、同時に姉のイワナガ姫ももらってくださいと言われる。二ニギは、イワナガ姫の容姿があまりに醜かったため、彼女だけを送り返した。この時から、本来不死の神である二ニギに寿命が生じたという。実はイワナガヒメは命をつかさどる神であったのだ。神は徐々に人間に近い存在になってくるというわけだ。

イワレビコ、東へ

 話を進める。さて、二ニギのひ孫にあたるイワレビコという神が日向(ひむか)の国を治めていた。おそらく当時の九州は火山活動も活発で、大規模な噴火も頻発。気候変動のたびに食物が不足し、結果、人々の争いの絶えない時代であったろう。「天下を平定するために東へ向かおう」と、イワレビコは日向を出発し、北九州筑紫へ。さらに本州へ渡り、現在の山口県、広島県、岡山県、兵庫県と東進する。各地の豪族との戦いに勝利しつつ進み、ついにヤマトの国に統一王朝を打ち立てるというのが、神武東征であり古事記の記す日本建国の一段である。ただ、残念ながらこの話も現時点では神話の域を出ておらず、全てを信じてしまうことはできない。

人類史からみた神武東征

 この純粋に日本的な日本神話も人類史の流れの一環として俯瞰すれば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。時代は2世紀から3世紀あたりであろう。縄文時代から弥生時代へ移る時代、弥生時代へ移行する直接の契機は、計画的な大量稲作によってもたらされた。縄文時代、日本には人間同士の争いがなかったと考えられている。以前は、縄文人は狩猟採集生活をしていたと信じられていたが、最近では青森の三内丸山遺跡の大集落遺跡が示すような、定住生活をしており食物栽培、米造りも行われていたことが分かっている。

三内丸山遺跡(青森県)

三内丸山遺跡(青森県)

 本質的に縄文時代と弥生時代を分けるのは、米の大規模水耕栽培(水田)と農機具としての鉄器の利用であると考えられている。人間の手によって、大量に生産される米が、人口の増加を招く。それまで自然の恵みは有り余るほどあったが、人間が増えれば相対的に不足する。食料を安定供給するため、米は備蓄されるようになる。米は財となり、組織(村)が生まれ管理するようになる。経済が発生する。そこには富の格差が生まれてしまう。格差は紛争を生み、戦争が生まれる。人間の歴史はそのように進んでしまった。

徐福神話、天孫降臨

 この変化が、縄文時代の末期から弥生時代初期に起こった。きっかけは大陸から優れた技術をもたらした渡来人であることは間違いないだろう。徐福伝説というのも、中国、韓国、日本の各地に広範囲に伝わる伝説である。

徐福像

日本各地に数多くある徐福像の一つ

 徐福は秦の始皇帝に、東の国にあるという不老不死の薬を献上するために大陸を離れた人物とされており、日本の和歌山県新宮、長崎県をはじめとして、数多くの上陸地点とされる場所がある。各地に残る徐福伝説の多さを見れば、たとえば“徐福”とは縄文から弥生への変革期に大陸からやってきた、いくつかの集団をそう呼んでいるのかもしれないという想像もできる。古事記の物語が、ある程度は現実の日本古代史に起きたことを示していると言っても、二ニギが天孫降臨で高天原から降臨したという話を、本当に天の上の世界から神が舞い降りたと考える人はいない。当時の人間にとって、たとえば大陸からの移住者を、天から降臨したと形容したのかもしれない(もちろん、諸説ある)。想像は自由である。ただし、神話を現在の国家に結びつけ、自分の都合よいように解釈し、ナショナリズムや国の優劣につなげて考えるような愚だけは避けたい。

太陽を目指した人類

 われわれは今、大きく人類史の流れを概観している。人類の最後の出アフリカは5.5万年前である。そして大きな流れとして人類はなぜか東を目指して移動を続けていった。極東の日本列島へは、4万年前、北回りの人類が先行して入り込み縄文文化を作り上げた。ユーラシア中央部を進んだ人々が大量に海を越え東進したのが、徐福の時代前後のヒトの流れ、すなわち縄文時代の日本に大量稲作鉄器をもたらし、弥生時代を導いた流れである。人類史の出アフリカ以来の事実上最後のステップだったのではないだろうか。
 そしてその人類東進の大きな原動力となったものとして、太陽を目指すというものがあったのではないだろうか。暗い夜が明ける時、太陽が昇ってくる方角、あの太陽の元にたどり着けば今より素晴らしい生活がまっているのではないか。砂漠の冷たい夜、寒冷期のシベリアでマンモスを追いながら、我々の祖先はそう考えつづけて長い旅を続けたのではないだろうか。その最終ランナーが、アマテラスという女王に導かれ、大陸から九州、そしてさらに東を目指し進んだ。それが神武東征の一つの目的ではなかったか。

天皇の誕生

八咫烏

八咫烏

 神武東征の話に戻る。日向(ヒムカ)つまり日に向かう国にいたイワレビコは、東に理想の国をもとめて東へ向かった。ヤマトの国まであと一歩のところでイワレビコは最大の敵に遭遇する。ヤマト地方(奈良)ですでに力をもっていたニギハヤヒ。彼は、二ニギに先立って天孫降臨したとされる神で、二ニギと同じくアマテラスの命を受けて天から地上に降り立ったとされている。ニギハヤヒは、長髄彦(ナガスネヒコ)と協力して大和地方を支配していた。
 古事記の文脈をたどると、実はイワレビコ以前にヤマトの地を治めていたニギハヤヒをイワレビコが戦いによって打倒したとみることもできる。そういった意味でニギハヤヒを第一代ならぬ第0代天皇だという人もいるぐらいである。イワレビコは直接ヤマト(奈良)を目指さず、現在の大阪から和歌山方面に迂回。多くの犠牲を出しながらも進軍し、最後は和歌山南端の熊野から案内役の“八咫烏(ヤタガラス)”に導かれ紀伊の山中を北上しヤマト入り。最後にナガスネヒコの軍を打ち破る。
 ナガスネヒコ、ニギハヤヒとの戦闘における勝利により、イワレビコは大和地方を支配下に置き、初代神武天皇として即位する道が開かれたのである。

伊勢神宮内宮宇治橋から拝む朝日

伊勢神宮内宮宇治橋から拝む朝日

 高天原のアマテラスは、天孫降臨した二ニギ以来、神武天皇即位後も、基本的には天皇のもとで祀られてきたが、より安全な場所に祀るべきとの考えから、ふさわしい場所が検討され、最終的に現在の伊勢に“神宮”が作られた。伊瀬神宮内宮へつながる宇治橋からは、冬至には、昇る朝日を真正面に拝むことができる。

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日本を学ぶ(8)日本創成Ⅱ 敗者たちの歴史
タケミナカタは諏訪大社の御柱に守られているのか、それとも閉じ込められているのか。出雲大社のオオクニヌシは逆に張られたしめ縄によって社の中から出られなくなったのであろうか。文字のない時代の日本の、永遠に解くことのできない謎である。

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