再び中国へ
何かをやり始めるのに遅すぎることはないとよく言う。そういう言い方を否定はしない。が、人間の行動というものは、知らないうちに年相応なものに変化し、元気を気取っていても、チャレンジ精神は減退し、無謀な行動はしないようになっていくものだ。私は現在67歳だが、30代40代のころ、仕事で連続徹夜しても平気だったようなパワーはとうの昔に失われている。海外で旅行に出る時、当日の宿を予約せずにとりあえず家を出る、などということも最近はなくなった。
前回、中国に再就職が決まって着任までの期間、短期留学をしたと書いた。すでに55歳になっていた。勉強する年齢についてはともかく、留学を決めたやり方がふるっていた。ほんの十数年前のことであったが、今ではできない。相対的に若かったからだと思う。
着任予定地の常熟で、先方幹部と打ち合わせ後、帰国のため上海に移動したが時間が空いた。過去オンラインで中国語を習っていた大学院生が卒業したという復旦大学を見に行くことにした。
2010年秋 上海復旦大学にて
復旦大学のキャンパスは街中にあり、キャンパスは小さめだったが、一歩大学に足を踏み入れて気に入った。古い建物と近代的な校舎が混在して、程よく調和していた。
すれ違う学生たちの姿が清々しかった。ふと、仕事を開始するまでの二ヶ月半、ここで中国語を勉強するのはどうだろうと思った。再出発のエネルギー充填にはちょうど良い。
超スピード留学手続き
思い立ったがすぐ行動と、事務所然とした建物に当たりをつけ入っていった。語学留学したいと言うと、違うからどこそこへ行けと言われる。そういうことを数回繰り返し、キャンパス端の小さな建屋に辿り着いた。そこには海外留学生の取りまとめと思しき50歳前後の女性がいた。留学は2年間単位でゼロから実用レベルまで学ぶ。開始時期によってたくさんのクラスがあったが、とりあえず一番上のクラスに編入したいというと、面倒がらず丁寧に調べてくれ、適当なクラスを紹介してくれた。その場で授業料を交渉し、決めた。大学としてはたくさん外国人が来てくれればくれるほど、良いわけで、飛んで火に入る夏の虫ぐらいのものとはいえ、こういうことは日本では起こらない。
例えば、どこの馬の骨かわからない外国の男がいきなり事務室にやってきて、留学生の授業に入れてくれと言っても、まともに取り合おうとする日本の大学職員はいないだろう。まず身分の証明を求めるだろう。中国ではそういうことがなかった。
「(中国では)なんでもあり」かつてよく仲間内でそう言い合った。実際そうだった。そういう中国がある意味気に入っていた。ほぼ1時間で全てを決めることができた。ただ、あの時、私が払った授業料が、ちゃんと復旦大学本体に入ったかどうかは私の知るところではない。知る必要はあまりない。
私の語学自慢(閲覧注意)
以下、例によって老人の自慢話。読みたくない方は以下のセクションは飛ばしてほしい。私の語学勉強の経歴について少しご紹介しておく。若い頃、つまり90年前後は、会計、原価計算、英語の三つがビジネスマンの必須科目と言われた。会社の制度を利用したアメリカ留学を目指していたこともあり、学生時代苦手だった英語を32歳の時、一念発起勉強し始めた。結局留学は夢叶わなかったが、英検1級、TOEIC950、TOFLE630(旧試験)と、以後社内で英語のニーズのある場には頻繁にかり出されるレベルを数年で達成した。
中国語については2004年中国担当になった47歳の時、ゼロから始めた。自分で言うのもなんだが、ほぼ50の手習いにしては、けっこうものになった。実用的な能力を重視し、仕上げは孔子学院や日中友好協会のスピーチコンテストに出て実力を試した。優勝こそ逃したが、外国語学部の学生たちを相手に2大会とも全国2位の成績であった。
自慢話といったが、自分で自分を褒めたくなってしまうのは、こういうことを研究開発その他、激務の中で達成したことだ。
語学上達の秘訣はただ一つ
語学学習法のコツについて。自分の経験上そうだが、現在、日本語の教師をしている関係上、自分の経験や教え子たちの上達度など見ていていても、やはりこれだけは確実に言えるということがある。幼少期ではなく、ある程度の年齢をすぎてから実用的な語学力をつけるために、才能、センス、時間などの要素よりも、まず一義的に必要な条件がある。それはその言語を話す国が好きである、あるいは無理やりにでも好きになるということである。それが最低条件である。さもなくば、かつて司馬遼太郎さんが言ったように、外国語を自由に操ることは、鶏が飛翔するよりも難しい事になる。
教え子たちの上達度を見て、と言ったが、それは以下のようなことによる。近年の中国の大学の選抜制度は、複雑である。おおまかに言うと、高考という大学入試共通試験のようなものがあり、そこで獲得した点数によって、あなたはこの大学あるいはこの学科なら行けますという具合に決まってしまう。点数が低いと意に沿わぬ大学、学科に進むことになる。
よって大学の日本語学科のクラスには、もともと日本あるいは日本語が好きで日本語学科を選んだ学生と、そうでなく気がついたら日本語学科に入っていたと言う学生が混在することになる。この二種類の学生の行く末は極端に分かれてしまう。後者の学生たちは、なんらかのきっかけかインセンティブがない限り、まさしく飛翔しようとする鶏のごとく、努力の割には成果が伴わない数年間を過ごす結果になる。このことは教師としての経験上かなりの程度正しい。そう言う意味では、私は30代前半、アメリカが好きであり、40代後半、中国が好きであったことになる。
自分へのご褒美
話を戻そう。以後約2ヶ月半、私は各国からやってきたさまざまな若者たちと肩を並べ、中国語三昧の生活をする。大学卒業以来、初めて訪れた人生の休日。当時の流行り言葉で言えば、自分へのご褒美であった。留学手続き時に経験した「なんでもあり」の中国は、日本社会からドロップアウトした人間には、魅力的に映った。当時、そのような日本人が中国に一定数いた。私もその一人として中国という国を選んだのかもしれない。
そういえば、最近「なんでもあり」という言葉を聞かない
かつて「なんでもあり」だった中国。現在ではどうだろう。むしろできない、あるいは言ってはいけないことの方が多くなったように思う。そして、中国生活の折々に感じる得体の知れない息苦しさは、外国人だけの感覚でもなさそうに思えるのだが、どうだろうか。
久しく思い出すことのなかった復旦時代の記憶をたどり、以上のことを書いた。思い出のかなたの自分の心をたぐる過程で、自分の心の変化にも気づく。いつの頃からだろう、中国に対して好意的な心が、比較的冷めた見方になっている自分がいた。そういえば、最近では中国語そのものを使わなくなった。ここ5−6年は専任の日本語教師をしているだけに、中国語を使う必要もなくなり、中国語はカタコトレベルになった。私に言わせれば語学能力というのは水ものであり、旬がある。
そういうことで、現時点まともに話せるのは、というか積極的に話す気になるのは日本語だけということになっている。当面、日本語だけは忘れることはないだろうと思っている。
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