中国5000日(5)”秋の気配” オフコースの時代へ

off course オフコース

2004年11月

 現在は2024年11月である。今からちょうど20年前、始めて江蘇省南通市を訪れた。20周年だからというわけではないが、週末、初めて南通に来た時に宿泊したホテルに来ている。当時は東京からの出張時、頻繁に利用したが、その後も例えばコロナ流行時は、勤務先の大学キャンパスへの入場が制限されており、やむなく泊ったこともある。

ここが中国生活の原点

 現在は大学のある場所から地下鉄を利用すれば30分弱で到着する近場となった。ここが、私にとっては南通、いや中国生活の原点となる場所である。最初の駐在員時代も、ここからほんの50メートルほどのマンションに住んでいたから、勝手知ったる場所である。
 ホテルは、現在Mercureというおしゃれな名前に変わっているが、かつては三徳大酒店といった。建物はそのままである。部屋の北側の窓から見下ろすと、前方東西に横切るのが青年路、ここから東方向へ、約1キロ弱のエリアが、南通の日本人街とも言うべき場所で、日本料理店や日本人の住むサービスアパートが点在する。

Mercure hotel 1115から

Mercure hotel 1115からの眺め(昼)

 東西に走る青年路から、北西に分岐し、まっすぐに伸びていく道が、南大街につながる旧南通市街のメインストリートである。ホテルの部屋から見る街路の風景は、20年前となにも変わっていないように見える。

転換点 あるいは 岐路

  人間というものは、変化の只中にいても、なかなかそのことに気が付かない。長い時間をかけ、あらかた変化が完了して、時代の曲がり角をすっかり曲がり切ったあたりで、ああ自分は大きな方向転換をしたのだと気が付く。よく言えば、これは人間の適応力のたまもので、日日の微細な変化には、適宜うまく適応していく人間は、小さな適応を続けているうちに、ある日気が付けば、自分も大きな変化の中にいて、時代は自分もろとも大きな変貌を遂げていることに気付く。ただ蛇足ながら、そういう日日の微細な変動を見逃さないごく少数の人々が、新しい時代を作っていく先駆者となってくれるのであろう。

私にとっての大いなる岐路

  上のような大きな話ではないが、あの日は、私の職業人生にとって、大きな岐路であったと、今になってつくづく思う。当時、そう思わなかったのも無理はない。当時は中国関係の仕事をするのは、一時的なものだと思っていた。やがて、時期が来れば、住み慣れた京都の研究開発部門へ戻ることができるのだと、信じていた。能天気なものだ。以後8年間で、5回社内異動を経験し、文字通り各地を転々とし、そのまま、京都へ戻る日は来なかった。私は20年前のあの日、メインストリートを行かず、結果として枝分かれした道を選び、いったん道を外したと気づいた時はもう、もとに戻りたいという気持ちを自ら放棄し、枝分かれした道をそのまま、まっすぐ歩いていくことを選んでいた。

私について

  エリートコースからの転落というものでもない。そもそも、私はいたって平凡な人間であった。例えば小学校から、大学4年生まで、たとえばこれだけはクラスで一番というものが、あったためしがない。スポーツができるとか、勉強ができるとか、優等生的なことに限らない。鉄道駅を全部誦じているとか、どこぞの学校の番長に殴り合いで勝ったとか、金だけはいくらでも自由に使えたとか、要するにクラスの皆に注目され、一目置かれるようなことは、一度もなかった。政治や経済に興味があるわけでもなく、若者らしい“怒り”をもって生きていたわけでもない。“軟弱”という言葉は今や人を指す言葉としては死語だろうが、私はそういう軟弱な若者の一人であった。

Mercure hotel 1115からの眺め(夜)

Mercure hotel 1115からの眺め(夜)

 大学では周囲の同年代の学生たちの博学にひれ伏していた。彼らの勧める本を読み、クラシックのコンサートや、学生のよく行くジャス喫茶などにも通った。海外からくる美術展覧会は必ずと言ってよいほど行ってみたが、結局私には、理解出来なかったように思う。大人の真似をする子供のようなものだった。
 兄は頭が良かった。兄のようになりたいと思い、ある時から無理して勉強した。時間さえかければ、高校までの勉強ならおそらく誰でもできる。結果的に、世間的には一流と呼ばれる大学で修士まで修めたが、それは努力と、ちょっとした運の賜物で、本物ではなかった。そのままの流れで研究者になり、就職して研究部長まで務めた。ある意味、マラソンの集団の中で、遅れずなんとかついていこうとギリギリまで自分を鼓舞し続けてきた人生だった。

年寄りくさい話、再び

 しかし、そういう生き方こそが、われわれ世代の“生き様”といえるのではないか。いろいろなレベルがあろうが、自分の能力の、少し上にあこがれ、一段でも階段を上ろうと懸命に努力する。結局、才能などというのは、ある程度生まれつき決まっているようなもので、自分があこがれたレベルにはそうそう上がれるものでもない。あるところで力尽きたとしてERIC DOLPHY”OUT TO LUNCH”も、それはそれ、結果としてみれば充実感のある人生だったと思う。そういう世代なのだ。

  大学生の頃、キース・ジャレットやエリック・ドルフィー、ジョン・コルトレーンをよく聴いた。友人の下宿で、酒を飲みながら音楽や哲学について議論した。結論の出るはずのない大きな話を、よくもまあ、あれほど長時間にわたってできたものだと思う。

off the course 

 本当のことを言うと、私は当時、ニューミュージックと言われたオフ・コースが大好きであった。車を運転しながら、あるいは夜中、下宿で一人ヘッドフォンでよく聞いていた。その時、その場の情景と音楽が重なって思い出されるシーンすらいくつかある。
横路へそれる 実は、今の今までオフ・コース(off course)というのは、元々建築学専攻の学生であった小田和正氏が音楽への道へと、外れていくことを意味していると思っていた。ここまで書いてきて、少し調べてみると、どうも必ずしもそうではないかもしれず、意味は不明というのが正解らしい。

 ということで、極めておさまりが悪くなってしまった。ともあれ、20年前の今月、私の“off the course”たる生活が始まったということを、まず言いたかった。
                (24年11月10日 江蘇省南通 Mercure Hotel 1115室にて)
(続く)

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