松尾芭蕉の名句を日本語教師の観点から解説します。
閑さや岩にしみ入る蝉の声(超訳)
この句が詠まれた時期について
松尾芭蕉が46歳の時、東北地方を旅した時の紀行文『奥の細道立ち』の中の句の一つです。この句は山形市の山寺「立石寺(りっしゃくじ)」を訪れた際に詠まれました。立石寺は、中尊寺・毛越寺などと並び、円仁(慈覚大師)が東北地方に開山した名刹の一つで、芭蕉は『奥の細道』本文でこのことにも触れています。
立石寺の開山堂は大きな岩に並び、岩の上の納骨堂を含む風景は、この古刹のシンボルとなっています。
名句までの道のり
山寺や 石にしみつく 蝉の声
同行した曾良の記録によると初案は「山寺や 岩にしみつく 蝉の声」となっているそうです。山寺や(YAMADERAYA)だと、意味からも音声的にものんびりした感じであり、「石にしみつく」では、「石」で視界そのものが小さくなり、石の表面に声がはりついているだけのイメージになり、後のものに比べると、凡庸なものに感じませんか。
さびしさや 岩にしみ込む 蝉の声
「しみつく」から「しみ込む」に変わり、「声(音)がしみ込む」という本来ありえない矛盾した表現をすることで面白味が増しています。「さびしさ」は、①周囲に人がいないさびしさな、のか、②作者の心がさびしい、のか二通りの解釈が考えられますが、①を意図したものでしょう。「心がさびしい」ということを直接俳句の中に言葉として入れてしまえば、まさしく平凡陳腐な句になってしまいます。
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
上で言ったように「寂しい」は 「閑寂」の意味ですよということをあきらかにし、「閑さ」にしています。それと同時に「静けさ」⇔「蝉の声」という二つ目の表面的な矛盾を作り出しています。
また「しみ込む」は「しみ入る」となり、岩の中に全体的に拡散するイメージから、岩に深く突き刺さるような印象を醸し出しています。音象徴からみても「NI SHIMIIRU」と、4つのI音が集中しているところが、「突き刺す」イメージを作っています。
心の状態が「閑か」であるがゆえに、周囲の雑音のような「蝉の声」の中で、時が止まったような「異次元空間」を作り出します。幼い頃、森や林の中で、周囲のすべての方向からの蝉の大合唱の中に身を置いたことのある人なら、瞬間「音」が消え、その静寂の中ですべてが停止したような感覚を覚えたことはありませんか。これは松尾芭蕉が晩年、旅の中で、身体の疲れや、日常の煩わしさから一瞬離脱し、一つの境地を垣間見た瞬間の記憶を、文字に留めた句ではないでしょうか。
音象徴から考える
先にも触れたように、この句の特徴は、母音「I」の多用です。
- しずけさや いわにしみいる せみのこえ
- SHIZUKESAYA IWANISHIMIIRU SEMINOKOE
とりわけ「岩にしみ入る」では7音中5音が「I」で印象は強烈です。
「A・I・U・E・O」すなわち「あいうえお」の音は、下図のように口の中で響く場所が「い」は前、「う」は後ろ、「あ」は低い場所、というように異なり、そのことがそれぞれの音の印象を作っています。一般的に
以下は、黒川伊保子著「日本語はなぜ美しいのか」からの引用です。
口腔部を高々と上げ、喉も口唇も開けっ放しにする「あ」。あっけらからんと開放的で、物事にこだわらない感じが「あ」。喉の奥から舌の中央部に向けてぐっと力の入る「い」は前方に身体を運ぶパワーがある、前向きで一途な感じが、「い」の発音と共に脳に届く。〔「日本語はなぜ美しいのか」集英社新書〕
「嫌だ」と言って「イー!!」とする。その口の形をする時、他の母音にない筋肉の緊張がありますね。「前に、前に」進んでいく力が「I」の音にあります。
「しずかさや」(SHIZUKASAYA)の「A」音の安定感があり、続いて突然現れる「いわにしみいる」(IWANISHIMIIRU)の「浸透力」は、「声」という本来、岩にしみ入るはずのないものが、岩の中に突き刺さっていく様子を創造させてくれます。
立石寺と円仁、中尊寺など
冒頭にもご紹介した通り、立石寺は中尊寺・毛越寺などと並び、円仁(慈覚大師)が東北地方に開山した名刹の一つです。現代では立石寺はそう有名なお寺ではありませんが、芭蕉が生きた当時は中尊寺と並ぶぐらいのお寺であったと思われます。中尊寺では有名な、
コメント