みんなが幸せになるために 2022年夏

人類は一家
人類は一家

高度成長世代の私

 私は自分を日本の高度成長世代の人間だと思っている。戦後12年過ぎた昭和32生まれである。一世代上のいわゆる団塊の世代とちがい、進駐軍にチョコレートをせがんだだの、被占領国としてのある種屈辱のようなものを経験していない。物心つけば“所得倍増計画”などといった勇ましい言葉に代表される、日本が独歩で前向きに生き直そうと勢い込んだ時代の中で成長した。

 大学を出て働き始めたのはジャパンアズナンバーワンなる本がアメリカと日本で話題になっていたころではなかったか。“24時間働けますか”などという勇ましいドリンク剤だかのキャッチコピーよろしく、過労死なにするものぞ、友の死を乗り超えてでも競争に勝ち抜こうと日夜会社に寝泊まりするモーレツ社員として働き盛りの時代を過ごした。家庭を顧みないエリートサラリーマンという言葉も誉め言葉のように聞こえてしまっていた、そういう時代である。

goalを目指して!

goalを目指して!

バブル崩壊  心の時代へ

 90年代、バブルが崩壊し経済は停滞期へ。以来日本経済は衰退の一途、などと最近あまり評判はよくないが、ちょうど立ち止まる良い機会だったのではないかとも思える。90年代はしきりに「心の時代」というフレーズが聞かれた。経済成長のみで人間の成長ははかれない。1億総中流などというが、いざGDP世界第2位になってみて真に幸福を手にしている日本人は本当にいるのか。否、だから自分探しの旅に出よ、というわけだ。高度成長をモーレツ社員として過ごした私は、21世紀、幸せひよこ&ハートを模索する世代となった。

 20世紀は戦争の世紀であった。なかでも昭和時代は日本にとって厳しい時代であった。平成天皇は生前譲位され、上皇となられたが、譲位の前に「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べられた。実感であろう。平成の31年間は日本人のそれぞれが幸福の意味を求め続ける「心の時代」であったと同時に、日本という国家にとっても過去を反省し、争いを好まない美しい国へと変貌していく時代であった。私はこの時期の日本の”成長”を実感できる。

 私たち日本人は少しは賢くなったといえる。もちろん先輩である世界の先進諸国にとっても21世紀は一つ賢くなり、国際紛争を解決するために武力に頼らないことを(一応)原則とする世界、時代に変わっていくのだと多くの人が思った。戦後12年後、日本という国で生まれた私は、日本や世界が共に物質的にそして精神的に成長していく素晴らしい時期を生きてきたのだと思っていた。

世界は同時進行的多元社会

 そういう「自分史的人類進化論」が覆るようなことが、ここ数年で連続して起こっている。コロナ騒動はさておき、21世紀の世の中、まさか人間同士の殺し合いはもうないだろうと思っていたが2022年年初に始まった戦争は終わる気配がない。オウム真理教のサリン騒ぎは20世紀末のことだが、今度は新興宗教の信者の2世が逆恨みか何か知らないが元首相を暗殺するというショッキングな事件も起きた。などなど…。人間はけっこう賢くなってきたじゃないか、というのは私の自己肯定欲が生んだ誤解に過ぎないのかもしれないと思うこの頃である。

 以前、ブレディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」というエッセイにいたく感動したということを書いた。人の立場を理解するエンパシー能力の大切さ、そして日本とは比べ物にならないイギリスの民主主義の成熟度などが、イギリスに比べればはるかに後進国である日本が改めて学ぶべきだと感じたわけだ。

 日本という村社会で生きてきた私だが、いざ世界に目を向けるとさまざまな発展段階、というか成熟度をもったさまざまな国が、多元的に同時進行的に発展を続けている。皆が足並みそろえて成長したり、成熟したりするわけではない。若くてこれから伸びるぞ、という国を発展途上国という。成長期をすでに終えた先進国もある。人の成長のように徐々に大きくなり、成熟し老衰期を迎えるというサイクルのようなものもありそうだ。ただ人のように後戻りのできないものでもなく、生まれ変わってもう一度成長しようという国もある。栄枯盛衰を繰り返す。夢よもう一度、過去の栄光をもう一度と思うのは人の常かもしれない。繰り返すにしても以前と同じではいけない。

これからの世界

 人類の人口は2050年前後に100億でピークをつけ、あとは減少すると言われている。30年後の世界がどのようなものかは予想できないが、今の若者にとっては確実にやってくる未来である。ただ人口が減少に転じ、人類が、すくなくとも下図の面で急成長から、成熟期を越え減少期を迎える時、必ずパラダイムシフトがやってくる。

中国、インド、ナイジェリア、日本

中国、インド、ナイジェリア、日本人口推移(日本経済新聞から引用)

 パラダイムシフトというのは、現代の世の中で言われる語彙を使うと、“脱成長”とかいうことになるが実際、どのようなパラダイムが世界を支配するようになるのかは誰にもわからない。

 ただこんなことを思う。富や権力を追い続けてきた人間も、きっと気がつくのではないかと思う。経済的に豊かになって、他人よりも優越することのみを優先することのむなしさを。人類が人口減少期を迎えれば、あるいは人類そのものの終末期を予測する人も現れるかもしれない。人類はその終末を意識した時、新しい幸福感を求めるようになるような気がする。

 人は死を意識して生活することはない。自分は死なないと思っているかのようだ。すべての人間は例外なくいつか死を迎えるというのにだ。しかし、なんらかのきっかけで個人が死を意識した時、生の本当の意味に気がつくというのは黒澤明の名作映画「生きる」にも描かれている私たち人間の真理ともいえる。

 同様に生命種として登り坂の途上にいる現在の人類は、人類は永遠に生存するものという前提で物事を考えている。人類がその終末を意識し始める時こそ今なお繰り返す人間同士の「やられたらやり返す」式の争いの馬鹿々々しさに気がついてくれることを期待する。

人類は家族

 強い者が幅を利かす世界でなくなった時、人類はよりシンプルな行動原理で相互信頼相互依存の社会と世界を築き上げていくに違いない。世界を一つの家に例えてみよう。たとえば、通常家庭には両親がいて子供がいる。おじいさんおばあさんもいるだろう。若いお父さんは強くて尊敬を集めるが、時と共に皆成長するし、老いる。息子は大きくなってくれば多少父親に対抗し反対意見も言うだろう。かといって通常家族が崩壊することはない。大きくなって体力的には父親より強くなったからといって、殴られたら殴り返してやると鼻息荒くする子供はいない。父親は一家の大黒柱であり、年老いた彼らの父母はその人生経験が尊重され、生産性は高くなくとも足蹴にされることはない。

「世界は一家 人類は皆兄弟」という言葉がある。実はこの言葉を言った人は、なにかと問題のあった人なのである。が、言葉だけを取り出せば、これほど適切に、人類が普遍的に目指すべきものを示している言葉はないのではないかと思う。

 書いているうちに話が妙に大きくなってしまった。まあ、たまにはこういうことを考えるもの悪くはないと思う。

 

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