満腹な人と空腹な人は意見がちがう

満腹な人と空腹な人は意見がちがう
満腹な人と空腹な人は意見がちがう

満腹な人と空腹な人は意見がちがう

満腹な人と空腹な人は意見がちがう

満腹な人と空腹な人は意見がちがう

 知らない街を歩いていたら、お寺の掲示板の言葉が目にはいった。「満腹な人と空腹な人は意見がちがう」散文的であまりお寺の掲示板の”お言葉”っぽくないが、わかり易くて良いと思った。

 考えてみれば、私たちは常になんらかの形で対立している。身の回りのちょっとしたことから、世の中の大事に至るまで、何かにつけて自分の“意見”を持ってしまう。自分の意見、立場をはっきりさせる方が良いと子供の頃から言われるからだろう。そして意見はしばしば他人のものと異なる。心の中で思っているだけの場合も多いが、口にすることも多い。周囲の同意、賛同を得られる場合もあるが、議論になることもある。議論、討論にとどまらず発展して喧嘩になるいこともある。社会的、政治的問題になることもあり、国と国の対立につながることもある。過去、意見の対立は戦いに発展し、あげくの果てに戦争すらやらかす。人間はそういうことを繰り返している。実際、心の底から反省しているようにも見えない。

満腹と空腹

満腹と空腹

「腹がいっぱいの人はもう食べ物はいらないと言うだろう。空腹の人はそれは困る、もっと食べ物をよこせという意見を言う。違ってあたりまえだ。そんなこと議論しても始まらない。言っておくが、お前たちが今、口角泡を飛ばして議論していること、対立していることなど、元をたどれば満腹か空腹か程度の違いから生まれてきたもんなんだぜ」と、上の言葉は言おうとしている。

2020年1月15日、コロナ日本へ

 今回の新型コロナの感染が日本で初めて確認されたのは2020年1月15日である。日付まで記憶しているのはたまたま1月15日が筆者の誕生日だったから。あの日63歳になった。ただ、例年の如く正月には中国からも大量の観光客が押し寄せていたし、日本で感染者が出たからと言っても、さもありなんという感じで特段のインパクトはなかった。おそらく大多数の日本人にとってもまだまだ対岸の火事であった。

 その日を境に徐々にではあるが、中国からコロナ関連の情報が続々と入ってきた。勤務先の江蘇省南通市の病院や大学でもマスクが不足して困っているとか、現地の大学に残っている教員はあまり外出しないようにというような教務からの指示が漏れ聞こえ始める。1月末になり結局、2月1日に冬期休暇を終え上海入りを予定していた筆者に、渡航を見合わせ日本で様子を見るようにとの指示があった。

2020年1月25日の新聞

2020年1月25日の新聞、そろそろ報道にも熱が入る

 そこからは世界中大騒ぎだ。以後10か月日本から出国できず、その学期はすべて日本からのリモート授業であった。現在2022年7月26日、日本では週間感染者数が過去最高の100万人を超えてコロナ禍2年半、勢いは衰えない。

コロナ禍の日本と中国で

 この2年半、筆者は日本に14か月、中国に16か月、ほぼ半々滞在したことになる。多くの中国駐在員は多くの時間中国にとどまっている。一度帰国すると中国での隔離期間が長く、仕事にならないから当然のことと言える。2年半中国にいて一度も帰国していないという人もいる。おもしろいことにそういう人たち、つまりコロナ期の大半を中国で過ごしている人々は、“日本はコワイ”という。ゼロコロナ政策下の中国、つまり市内に一人でも陽性者(多くは無症状)が出れば、行動制限がかけられ、連日のPCR検査が義務化される国におれば、日本はウイルス、陽性者がうようよいるのだから、“日本コワイ”は当然である。

 コロナ禍を中国と日本で半々を過ごしている筆者からみると、実は中国もコワイ。ゼロコロナを達成するためにいろいろなその他のリスクを負わねばならないということが、実は中国で暮らしていると、かなりあるということがわかる。このことは中国人や中国にいる外国人は気がついていない。

正解がない時の最適処方

 今日現在(2022年7月27日)で言えば、日本では感染者急増中ながら、集団免疫獲得を目指しているのか行動制限をかけずに夏休みの移動時期を迎えている。いち早く感染者の減少を達成している欧米諸国と同じ方向性に向いている。当初言われたように、このまま今回のコロナもインフルエンザと同じように恐れるほどでない風邪の一種となるのかもしれない。もちろん、そうでないかもしれない。中国では陽性者どころかウイルスそのものをゼロにすべく、おそらく今も街中で消毒液散布などの厳しい対策が行われているに違いない。極端な違いがある。

 こういう明確な違いがあることは好ましいことではないかというのが私の考えだ。人類が二つの全く異なる方法でコロナウイルスに対抗しているということだからだ。

 ゼロコロナとウイズコロナと、どちらがいいかわからない。人類が危機に遭遇した時、皆が同じ方向に逃げ出すのではなく、二手に分かれて逃げ出しているような状況だ。

二手に分かれて逃げ出そう!

二手に分かれて逃げ出そう!

 もっとわかりやすい例がワクチンである。西側諸国ではほとんどの人がmRNAワクチンを打っている。筆者も打った。長期に渡る安全性は未確認のままmRNAワクチンは承認され何十億という人々が接種した。ただmRNAワクチンには未知の危険が潜んでいるという可能性もある(そうだ)。もちろん可能性はきわめて少ないが、mRNAワクチンを打ったすべての人の後裔が途絶えるというような恐ろしいことを言う人もいる。そんなことになれば、ワクチンを拒否した一部の人々と中国製ワクチンを接種した人々だけが生き残るということも考えられる。もちろんその逆の可能性もある。

 それにしたって、たとえ人類の半分が滅んだとしても、全人類が滅亡するよりはいいと思う。

自信たっぷりと自信喪失

 日本は80年代末のバブル崩壊以後、経済では長期のリセッションから抜け出せていない。だから他国より経済成長というキーワードに弱い。コロナ禍初期、多くの西側諸国が経済停滞を余儀なくされた中、統率のとれたゼロコロナ政策でひとりきわめて早いコロナ抑え込みに成功し成長を維持した中国を見て、”民主主義ダメかも”という論調もあった。そういう議論も日本では最近多い。

 その時々で少し調子が悪くなると、やっぱり日本はダメだなあと意気消沈して小さくなってしまう日本人という国民がいる。日本人はやたら反省好きである。これに対し中国人は今何かにつけて、なぜか自信たっぷりである。

自信たっぷりと自信喪失

自信たっぷりと自信喪失

 自分のやり方が、それが本当に理想的かそうでないかも含めてとりあえず最高であると信じて疑わないのが良いか、あるいは、もしかしたら自分は間違っていたのかもしれない、隣の芝生は時に青く見えるというわけで、よそ見しながらおどおど進むのが良いか。実は、これについてもどちらもあって良いのである。それすらも多様性といえないか。どちらがいいという問題ではなく、どちらもあって人類は成り立つのだ。

 一つの信念にこだわり、それを貫き通すのももちろん良い。表面的に自分以外の考え方は間違っており我こそは正しいと公言してもよい。ただ、そのような人々も、どこか心の中では自分の考えは人類すべての考え方ではないこと、成功するしないは、人知の及ぶものではなく別次元の問題であることを理解しておくこと。であればこそ、結果に対しては虚心坦懐に向き合っていく心の持ちようだけは必要ではないか。

 コロナの2年半、コロナを引き金にして世界中でいろんな対立軸が生まれてきたように思う。そのこと自体は喜ぶべきことではないが、また憂うべきものでもない。しょせんは腹がいっぱいか空腹であるかの違いのようなものだ。

 

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