地名由来の日本語で、日常的に使われるようになったものを集めました。
関西圏
日本の中心は長い間近畿圏でしたから、地名由来の言葉も多くは関西圏で生まれたようです。
地名由来語源マップ(関西編)
やぶ医者(兵庫県養父)
やぶ医者:下手な医者のこと。「あそこの医院はやぶだからやめといたほうがいいよ。」
もともと「やぶ医者」とは現在の意味ではなく、江戸時代兵庫県の養父にいた高名な医者を指す言葉でした。なんでも「死んだ人でも生き返らせる」ぐらいの腕だったとか。「養父の医者」と言えば名医の代名詞だったのです。
そうすると、にもせのが現れるのが世の常。私は養父から来た医者「養父医者です」と名乗る、ろくでもない医者が横行します。そんな医者は当然下手くそが多い。いつしか「やぶ医者」はよろしくない医者を表す言葉になってしまったということです。
【追記】(2020-5-25)残念ながら上の説は誤りであることがわかりました。三省堂国語辞典第八版によると鎌倉時代から「やぶ医師(くすし)」の形で使われており、「やぶ」は「いなか」の意味。だから「江戸時代の養父にいた医者から」という説は時代が合わない、とあります。(残念)
あこぎ(三重県阿漕海岸)
あこぎ:貪欲で無情なやり方。「あこぎな商売に手を染める反社会的勢力」
阿漕の海岸は三重県伊勢湾にあります。海岸が東を向いているので水平線に昇る朝日が美しい海岸です。地図でもわかるように伊勢神宮が近い。そのため、ここでは伊勢神宮に献上する魚、つまり神様に供える魚を獲る場所とされ、かつては一般の漁は禁止されていたそうです。
罰が当たっては大変とそのルールをやぶる人間はほとんどいなかったらしいのですが、「阿漕の平次」なる漁夫が大胆に禁断を犯し捕らえられてしまいました。
そんな伝説から「あこぎなやつ」と言えば、まっとうなやり方でなく暴利をむさぼろうとするような人間を形容する言葉となったのです。
阿漕海岸(三重県)の日の出
くわばらくわばら(京都市中京区桑原町)
くわばらくわばら:災難を避けるおまじない。「くわばらくわばら。鬼の来ぬ間に退散だ。」
くわばらくわばら
もとは雷避けのおまじない。
京都御所に隣接する桑原町はもと菅原道真(すがわらみちざね)という偉い人の領地で、そこには不思議と雷が一度も落ちなかったそうです。人々は、道真が神に守られているからだと考え、雷が鳴るとどこにいても、ここは桑原ですよと天の神さまに伝えるため「くわばら、くわばら!」と念じたとか。
今では、災難が降りかかってきそうなときそれを避けるため、軽いジョークのような口調で言ったりすることが多いですね。
「天王山」「洞ヶ峠」(京都府、山崎の戦い古戦場)
「天王山」:雌雄を決する大切な対決、「洞ヶ峠」:有利な方へつくためしばし傍観する。「次期社長候補を決める天王山ともいうべき二人の論戦、大勢が決まるまで洞ヶ峠を決め込む取締役たち」
洞ヶ峠をきめこむ
主君である織田信長を倒した明智光秀と、中国地方から大返しした豊臣秀吉が天下をかけて争ったのが天王山をめぐる山崎の戦い(1582年)。この時、奈良に勢力を持つ筒井順慶の軍は光秀、秀吉のどちらにも加勢せず、勝ちそうな方に味方しようと洞ヶ峠で戦況を見ていたという言い伝えがあります。
この山崎の戦いの言い伝えから「天下分け目の天王山」、「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれました。
天王山、山崎の戦い(1582年)
タニマチ(大阪市中央区谷町)
タニマチ:ひいき筋、後援者。「タニマチが相撲協会を支えている」
大相撲のファン(贔屓筋:ひいきすじ)で金銭的にも援助を惜しまない後援者のことを「タニマチ」と言います。広義では歌舞伎などの伝統芸能の後援者もタニマチです。
実際に大阪市の谷町筋にいたお医者さんが大の相撲好きで、相撲取りからは治療代を取らなかったという逸話から「タニマチ」という言葉が生まれました。
全国圏
京都から政権が東に移るのは鎌倉幕府1185年、徳川幕府1603年ですから近畿圏以外の地名由来の日本語はそんなにありません。
タニマチ(大阪市中央区谷町)
小田原評定:いつまでも決まらない。「会議は小田原評定で、いつまでも何も決まらない」
「おだわらひょうじょう」と読みます。実はこの言葉も豊臣秀吉が関係しています。
1590年、豊臣秀吉が小田原城の北条氏直を攻めた時、城の中では戦うか降伏するか意見が分かれ結論が出ないまま時が過ぎ、結局落城に至ってしまいました。このことから、なかなか決まらない話し合いのことを小田原評定と言うようになりました。
いざ、鎌倉!(神奈川県鎌倉市)
いざ、鎌倉!:さあ、大変だ!「いざ、鎌倉という時には彼だって重い腰を上げるだろう。」
「いざ」は動作を始める時の意欲を示す感動詞、現代語の「さあ!」に当たります。
日本初の武家政権は源頼朝(みなもとのよりとも)によって鎌倉に開かれました。諸国の御家人(今なら地方政府のトップですね)は日頃はのんびり(?)過ごしていても、召集を受ければ「いざ、鎌倉!」と馳せ参じたことから、「いざ、鎌倉!」は大事が起きたことを意味するようになりました。
江戸の敵を長崎で討つ(東京都)
江戸の敵を長崎で討つ:意外な場所、または筋違いなことで仕返しをする。「武力で攻められたことに経済制裁で対抗するのは江戸の敵を長崎で討つようなものだと言う人がいる」
「えどのかたきをながさきでうつ」と読みます。文字通り江戸(東京)での恨みを遠い長崎で晴らすということなのですが、この言葉はもともとはちょっと違いました。
江戸の敵を長崎が討つ
敵討ち
だったそうです。
江戸時代、大阪から来た人が江戸(東京)で見世物をして大成功した時、江戸の人も対抗して見世物をして対抗したがかないませんでした。その時長崎から来た人が見世物をして大流行したそうです。
結果的に江戸人の恨み(?)を長崎の人が晴らしてくれたことになり「江戸の敵を長崎が討つ」と言われたのが最初のようです。
番外編「おこがましい」
おこがましい:出すぎている。身の程知らず。「おこがましい言い方ではありますが…」
「おこがましい」は漢字で「烏滸がましい」と書きます。「烏滸」というのは後漢の時代からあった言葉で「烏(カラス)のように騒がしい水辺に住む人(滸)、あるいはそのような人が住む場所」を表しているそうです。
「~がましい」は「晴れがましい」「恨みがましい」のように「まるで~のようだ」という意味で使う接尾辞ですから「烏滸がましい」は「まるで烏滸のようだ」
「烏滸」は中国南部のある民族および彼らの住む場所を示していたようです。
あまりよくない言葉ですから、固有名詞ではなく「痴がましい」と「痴」の字があてられたり、ちょっと面白いのは当て字で「尾籠(おこ)」という書き方をして、さらにそれを音読みして「尾籠(びろう)」という今では「下ネタ」的なちょっときたない話を表す新たな言葉を生み出したことです。
「尾籠(びろう)な話で恐縮ですが…」
「おこ」は「怠る(おこたる)」という言葉のもとになったという人もいます。
烏滸(おこ)の変化
ちょっとかわいそうな烏滸の人たちです。
(以上、新明解語源辞典、地団駄は島根で踏め、ぷらり日本全国「語源遺産」の旅、以上わぐりたかし著などを参考にさせていただきました。)
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