人の存在を消そうとする日本語

にほんごのふしぎessay

 日頃、日本語を使っていてもなかなか気づきにくいのですが、日本語には「人の存在を曖昧にしよう、できれば消してしまおう」という力が働いているようです。そんな例をいくつかご紹介します。

山のあなた

山のあなたの空遠く 「山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う。」これは上田敏が訳詩集「海潮音」に収めたドイツの詩人カール・ブッセの詩「山のあなた」の冒頭です。日本ではその昔国語の教科書に載っていたそうで、けっこう有名です。

 訳詩集は1905年に出たものです。ここで使われている「あなた」は今では使いませんが「向こうの方」を指す遠称です。

 現在「You」、つまり二人称として使われる「あなた」は、もともと人を指すのではなく場所を指す言葉だったのですね。

日本語に人称代名詞

 少し極論ですが、日本語には人称代名詞は存在しないという人がいます。人称代名詞とはたとえば英語の「I」。これは人を指すこと専用に使われ「I,My,Me」「He,His,Him」のように活用するものです。英語の人称代名詞に比べれば、日本語の人を指す言葉は特別人称代名詞という名称で呼ぶほどのものではないかもしれません。

 逆に日本語の人称代名詞は「たくさんある」という人もいます。「私、僕、俺、あたし、我、吾輩…」「あなた、おまえ、君、きさま…」「彼、彼女、あいつ、あの方…」状況に応じてさまざまこちらは…な呼び方を使うのが日本人ですから。

 しかしこれらの言葉は、先ほどの「あなた」はもちろん、ほとんどが場所を表す言葉に由来するものなのです。あなた=あちらの方、おまえ=お前、彼=かなた(=あちら)、あいつ=あちらの人、あの方=あちらの方角、のようにもともと場所を示す言葉を借用して人を指すのに使っていると言えます。

 「わたし」の語源は不明な部分が多いのですが、公(おおやけ,public)に対する概念(private)として作られたようです。「場所」を示すものではないようですが、少なくとも本当の意味の人称代名詞とはいいにくいのです。

こうなっている理由は

ご紹介します。こちらは○○さんです。
 と、相手を敬うときに相手の存在をぼかして相手のいる方向を示すのが、礼儀正しいと考えるのが日本人のメンタリティだと言えそうです。

人や人の思いもぼかして場所化する日本語

 人称代名詞以外にも、あえて「場所化」することで人や概念を曖昧化する現象はよく見られる現象です。

  • ○○様は ⇒ 〇〇様におかれましては (置かれまして)【場所化して尊敬を示す】
  • ちょっと悩ましいですね ⇒ ちょっと悩ましいところですね(所ですね)【場所化して言い方をマイルドにする】
  • バスが遅れたんです ⇒ 「バスが遅れた」あります【場所化(存在文)して言い訳する】

     ↓ バスが遅れたんです(「~んです」)については下記参照ください ↓

日本人の姓

 次に日本人の姓について考えましょう。

 日本人の姓についても、その人を示すものではなく、その人の住んでいた場所にちなんでつけられたと思われるものがほとんどですね。山の上に住んでしたから「山上」、下なら「山下」、大きな川があれば「大川」という具合です。

日本人の姓

日本人の姓

 例えばアメリカ人の名が、Carpenter 大工、Tailor 仕立屋のように仕事名であったり、Johnson ジョンの息子のように直接親子関係を示すような人間中心の命名法になっているのとは好対照です。

「見る」と「見える」

 次に、日本語の表現する内容そのものに「人」が入ってこないことが多いということについて例をあげてご説明します。

 例えば窓の外の風景が、自然に視野に入ってきた時「窓から山が見える」という言い方をしますね。下の二つの文を比べましょう。

  • 山から富士山が見える。
  • I see Mt.Fuji.

 それぞれを図示すると以下のようになるのではないでしょうか。

富士山が見えます

 「富士山が見えます」というと「富士山」の存在が視野の中に入ってくる話者の見ている「視野」そのものになるのに対し、英語のI see Mt.Fuji.では、「I」という観察者がいることによってはじめて「富士山の存在」が認識できるのですから、「I」の姿を画面から消すことは難しいのです。

「雪国」(川端康成)の冒頭

 二つ目の例です。

 以下は日本のノーベル文学賞作家、川端康成の有名な「雪国」の冒頭です。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

「雪国」川端康成

 アメリカ人サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)の訳文が以下になります。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

 それぞれの最初の一文に着目しましょう。

  • 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
  • The train came out of the long tunnel into the snow country.

 たとえば上の二つの文を絵に描いてみたらどんな絵ができあがるでしょうか?

 日本語の文には主語は示されていませんが、私が主体であり汽車に乗ってるということがわかります。そして座っている席から見える前景が時間の経過とともに変化していくさまが感じ取れるのではないでしょうか?

国境のトンネルを抜けると雪国

 これに対して、英語の訳文の方は主体である”The train”が主語になり、全体を俯瞰した形での情景が描かれているということになります。

The train

  物語の語り手である「私」はどこにいるかというと「列車の中」ということになります。

つまり、

  • 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。⇒ 私の存在は消えている(観察者そのものになっている)
  • The train came out of the long tunnel into the snow country. ⇒ 私は映像の中にいる。(この絵を観察しているのは別の視点、神様?)

まとめ

 写真を撮る時、風景画が好きな人もいれば人物を撮るのが好きな人もいるように、言語にも人を入れないと気が済まないという言葉もあれば、日本語のように人はできるだけ外しておきたいと思う言語があるようです。

 みなさんはどう思われますか?

 以上です。(YouTube「ゆる言語学ラジオ」などを参考にしてまとめました。)

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